時間のエレクトリック・ユニバース・モデルはあるのか? 時間に次元があるのか?
時間とは? 時間の流れの速さ
時間の流れるスピードってあるのでしょうか? 確かに、楽しいことや熱中している時は時間はあっという間に過ぎます。反対に、退屈な時やしたくないことをするときはなかなか時間は進みません。そうしたことは感覚として私たちは日常生活で体験していることです。しかし、時間とは何?と問われると答えに窮します。copilotに質問すると次のような答えが返ってきました。
時間の定義は、文脈によって異なりますが、一般的には以下のように説明されます。
⑴ 日常的な定義:時間とは、出来事の継続や変化を測るための枠組みであり、過去・現在・未来の流れの中で認識されるものです。
⑵ 哲学的な定義:哲学では、時間は意識の流れの中で認識されるものとされることが多く、カントは時間を「人間の認識のための先天的な直観形式」と考えました。一方、アウグスティヌスは「時間とは過去・現在・未来の区分があるが、実際には現在しか存在しない」と述べています。
⑶ 物理学的な定義:物理学では、時間は出来事の順序を決定する基本的な概念であり、ニュートン力学では絶対的なものとされましたが、アインシュタインの相対性理論では観測者の運動によって時間の進み方が変わるとされています。
⑷ 心理学的な定義:心理学では、時間は主観的な経験として捉えられ、個人の意識や記憶によって異なる感覚を持つものとされています。
次に、時間の流れるスピードってあるのでしょうか? とcopilotに質問しました。
時間の流れるスピードは、物理的・心理的な要因によって異なると考えられています。
物理学的な視点
アインシュタインの相対性理論によれば、時間の進み方は観測者の速度や重力の影響を受けます。例えば:
高速で移動する物体では、時間の進み方が遅くなる(時間の遅れ)。
強い重力場(ブラックホールの近くなど)では、時間がよりゆっくり進む。
つまり、時間の流れるスピードは絶対的なものではなく、観測者の状況によって変化するのです。
心理学的な視点
人間の時間の感じ方は、経験や意識の状態によって変わります。
ジャネーの法則:年齢が上がるほど、時間が早く過ぎるように感じる。
集中しているとき:時間が短く感じられる。
退屈しているとき:時間が長く感じられる。
このように、時間の流れのスピードは主観的な要因によっても変化します。
次に、時間の流れるスピードを測る事ができますか? と質問してみました。
時間の流れるスピードは、物理的な時間と心理的な時間の両面から測定できます。
物理的な時間の測定
物理学では、時間の進み方は標準的な時計(原子時計など)を使って測定されます。特に、アインシュタインの相対性理論によれば、時間の流れは速度や重力の影響を受けるため、異なる環境では異なるスピードで進みます。
高速で移動する物体では、時間の進み方が遅くなる(時間の遅れ)。
強い重力場(ブラックホールの近くなど)では、時間がよりゆっくり進む。
このような時間の変化は、精密な原子時計を使って測定されます。
心理的な時間の測定
人間の時間の感じ方は、経験や意識の状態によって変わります。
ジャネーの法則:年齢が上がるほど、時間が早く過ぎるように感じる。
集中しているとき:時間が短く感じられる。
退屈しているとき:時間が長く感じられる。
心理学では、時間の主観的な流れを測定するために、時間知覚テストや脳波測定が用いられることがあります。
私は常識的な返答には面白みを感じないので、質問の内容を変えてみました。というのは、20数年前に読んだ『神との対話』という本には、時間というものはないと書かれていたからです。
以前に読んだ本で『神との対話』という本には、時間というものはないと書かれていました。思い出すためにも、その内容を教えていただけますか?
『神との対話』では、時間について非常に独特な視点が示されています。この書籍の中で、時間は存在しないとされ、すべての出来事は同時に起こっているという考え方が強調されています。これは、時間を直線的なものではなく、永遠の今として捉える視点に基づいています。
また、時間は動いているのではなく、動いているのは私たち自身であるという考え方も述べられています。この視点に立つと、時間の流れに囚われることなく、より自由な意識のあり方を持つことができるとされています。
調子に乗って次の質問もしてみました。
奇跡の学習コース(A Course in Miracles)に時間について書かれているものはありますか?
『A Course in Miracles』では、時間について独特な視点を提示しています。特に、時間は幻想であり、すでにすべての出来事は「一瞬のうちに完了している」という考え方が強調されています。この書では、時間と空間はエゴの戦略の一部であり、神の永遠性を忘れさせるための仕組みとして機能するとされています。
また、「時間の二つの使い方」という章では、時間は学びのための道具であり、聖霊は時間を「救済のための手段」として使うと述べられています。エゴは時間を「破壊の証拠」として利用し、未来への恐れを生み出しますが、聖霊は時間を「永遠の今」へと導くために活用するとされています。
さらに、時間の役割については「時間の機能」という章でも触れられており、時間は「恐れを克服し、愛を学ぶためのもの」として位置づけられています。
ますます迷路に嵌まり込んでしまいました。
さて、マイケル・クラレージ博士は、私たちの祖先は、時間には次元があると考えていたと言います。
時間の次元? 興味をかき立てますが、さっぱりわかりませんでした。
この動画の最後に「もしあなたが、新しい惑星金星が太陽系に入ったという日本の古文書を信じるなら」という発言があります。調べてみましたが、わかりませんでした。いわゆる日本の古文書と言われるものには惑星について書かれているものは世界中の神話や言い伝えに比べて少ないようです。なぜでしょうか? これも大きな疑問です。
[要旨]2023/10/15
時間に関するエレクトリック・ユニバース的観点は存在するのか?
ここでは、時間に次元があることを納得してもらうというよりも、我々の祖先がそう考えていたことを納得してもらうことを目的としている。新しい惑星、金星が太陽系に入ったという日本の古文書を信じるなら、おそらく時間にも空間と同じように三つの次元があるというエジプトの文献を信じるだろう。
まず、古典物理学から得た時間に関する四つのポイントの分析と探求から始めよう:
1)"今この瞬間"という現実は揺らいでいる;
2)時間の流れる速度は不明確である;
3)時間の点だけでなく、時間の線も存在する;
4)複数のバージョンのシステムが同時に存在しうる。
また、ヘルメスから導き出される古代の知識、つまり様々な歴史時代の著作を認めることも適切である。しかし、ほとんどの考え方は、数万年から数十万年前のエジプトという非常に遠い過去に起源を持っている。
宇宙物理学者であり、SAFIREの主任科学者であるマイケル・クラレージ博士は、古典物理学と古い文明から、現代的な時間に関する観点の論拠を述べている。
マイケル・クラレージ:時間のEUモデルは存在するか?| サンダーボルト
Michael Clarage: Is There an EU Model of Time? | Thunderbolts
時間のエレクトリック・ユニバース・モデルはあるのでしょうか?
まだありません。
ウォル・ソーンヒルとこのことについて話したとき、彼は私が単純化したニュートン的な時間モデルと呼んでいるものに同意しているとはっきり言っていました。
私はそれには意見を異にしています。また、古典物理学、気体の挙動の物理学、量子力学には、時間の性質や、時間がいかに複雑で多次元的であるかについて、私たちに伝えるべきことがたくさんあると強く感じています。
イマニュエル・ヴェリコフスキー、デイヴ・タルボット、ドワルドゥ・カルドナなどが、前の時代のいわゆる神話を真剣に受け止めることを教えてくれたように、私たちは、前の時代が持っていた時間に関する知識に目を向け、無知であったはずの人々が何を言っていたのか、私たちのぼんやりとした理解を払拭し、うまくいけば物理学を正しい方向に戻すことができます。
ニュートンは絶対時間と見かけの時間を区別しました。その引用は、注意深く対処しなければならないものですが、次のようなものです、
「絶対的な時間、真の時間、数学的時間は、それ自体、またそれ自体の性質から、外部の何ものとも関係なく等しく流れ、別の名前で持続時間と呼ばれる。相対的な時間、見かけの時間、一般的な時間とは、運動によって持続時間を測る感覚的で外的な(正確か不規則かを問わない)尺度のことで、真の時間の代わりによく使われるもので、例えば1時間、1日、1ヶ月、1年などである」

ニュートンにとって、絶対時間は測定不可能なものです。感覚や計器では測れないのです。見かけの時間とは、私たちの感覚や計器が示すものです。
ニュートンのシステム全体は絶対時間の上に成り立っています。すべてのものには自然変動があるため、絶対時間を測定できる物理的な物体はありません。

例えば、日照量は毎日変化するし、二つの時計が1時間の経過について正確に一致することはありません。
ニュートンの足跡をたどり、落下する物体の速度を書くとき、時間と加速度に比例して増加するとすると、次のような式が成り立ちます。

私たちはtという変数を見て、これは私たちが考えることはできても測定することはできない領域に存在する絶対的な時間を指していることを忘れてはなりません。

ニュートン物理学の法則は、超感覚的な領域に存在し、非常に現実的です。

速度の公式では、aは加速度、v0は時計をスタートさせたときの速度です。

この中で今この瞬間はどこにあるのでしょうか?
時計をスタートさせてから何秒経過しているかが現在だと言うかもしれません。しかし、方程式はそれを知りません。まあ、そんなことはどうでもいいとおっしゃるかもしれません。私は現在に生きています。だから時計を見て、何秒経ったかを確認するだけです。でも、方程式はそれも知りません。
私たちが使っているニュートンの法則は、私たちが現在と呼んでいる瞬間について何も知りません。この法則は、私が今この瞬間として経験する好ましい時間については何も知りません。公式はすべての時間の関係を示しているのであって、特別な時間の瞬間を指し示しているわけではありません。これは非常に大きな問題(大事なこと)です。私たちが今この瞬間と呼んでいるものは、私たちの日常経験において最も理解しやすい側面のひとつです。
力学の法則がこのことを知らないというのはどういうことでしょう?

二つ目の考え方は、時間の流れです。
ニュートンモデルでは、絶対的な時間は等しく流れます。
これは、ある状況では時間が非常に速く流れ、ある状況では時間が非常に遅く流れるという、私たちの個人的な経験と明らかに矛盾しています。ニュートンはこれを見かけの時間と呼んでいます。しかし、物理学の法則は、時間の流れの速さについて何も述べていません。
これは現在という瞬間がないことと関係しています。物理学が今この瞬間について何も語らないのであれば、今この瞬間がどれだけ早く過ぎ去るのかについても、何も語れないことになります。

私たちが普段感じている時間の流れは、代謝や神経系の設計と直接結びついています。
私には、ネズミがとても速く動き、とても速く呼吸しているように見えます。彼らの人生はあっという間に終わりますが、マウス自身はそのような経験はしていません。

ネズミにとっては、時間の流れの速さはごく普通のことであり、命が短いとは感じません。ネズミは私たちを見て、人間であること、そしてこんなにどしんどしんと歩くことがどんなに奇妙なことだろうかと思います。
あなたは、時間の流れに関する主観的な生物学的経験について語るべきではなく、ニュートンが他の何ものにも影響されずに流れていると言っているtという変数がある物理学にこだわるべきだと反論するかもしれません。しかし、絶対的な時間は感覚や計器にはアクセスできないので、あなたも私もマウスも、絶対的な時間の流れの速度を体験することはできません。また、方程式自体には、時間の流れの速さについては何も書かれていません。ですから、私は、聴衆の中の物理学者たちに、方程式が時間について何を語っているのか、そして、私が物理学と私の個人的・生物学的観念をごちゃ混ぜに(勘違い)しているのか熟考するよう挑んでいるのだと思います。
私は個人的な知覚と方程式の厳密さの両方を受け入れます。例えば、私や他の多くの人々は、時間が根本的に異なる速度で流れる経験をしたことがあります。例として、交通事故のような物理的な危険が迫っているとき、時間の流れは実際に遅くなります。私の時間体験は根本的に異なるスピードにジャンプし、普段なら一瞬で過ぎ去ってしまうような何百もの細部が、まるで超スローモーションで流れる映画のように、完全に詳細に見えるようになります。

これは、私のいつもの時間感覚とは違いますが、だからといって真実ではないのでしょうか?
私の経験では、時間はさまざまな速度で流れることができ、ニュートン力学の方程式には、本来あるべき真の速度は何も書かれていません。ですから、先ほど申し上げたように、私はどちらの視点も真実だと言っているのです。
ここで、古典物理学から得られた時間の側面について、箇条書きにまとめてみましょう。
1)今この瞬間という現実は揺らいでいます。
2)時間の流れる速度は不明です。
1700年代のニュートン以降、最小作用原理と呼ばれるものによって、時間に文字通り別の次元が加えられました。

平たく言えば、何かがA地点からB地点に移動する必要がある場合、それは常に最小の仕事を伴う方法で移動するということです。ほとんど些細なことに聞こえますが、理論と実践の両方で非常に優れた物理学につながります。
奇妙なことに、この原理では、AからBに行くには多くの可能な経路があり、システムは何らかの方法でそれらの可能な経路をすべて知っていて、何らかの方法で最も簡単な経路を見つけることになると仮定しています。
完璧な例は、森の中腹を流れる水です。水は常に、道筋全体が最も簡単になるような経路を見つけます。水はどうしてそれを知っているのでしょうか?
あなたは、水は何も知らない、単純な因果に従っているのであって、私は方程式を深読みしすぎていると反論するかもしれません。しかし、私は方程式に対する深い尊敬の念から出発しています。物理学の方程式が時の試練に耐え、文字通り何十億もの複雑な問題を解決するのであれば、私はそれを真摯に受け止め、熟考し、以前から抱いていた信念を捨て去ることも厭わないと言いたいのです。
最小作用の原理では、私たちは全経路、全期間を見ることを余儀なくされます。時間という一本の線に目を向けるよう求められています。もう一度言いますが、好ましい瞬間はありませんが、ある意味では瞬間はなく、線(道筋)があります。
私たちは、点というゼロ次元から線という一次元にジャンプしました。点はいくつあっても線にはなりません。この原則は、私たちは時間の線(道筋)に注目しなければならず、時間の線全体が単一オブジェクトであると言っています。それを点に分割する必要はありません。
この原則はどれくらい使われていますか? と尋ねるかもしれません。
この原理は、力学、熱力学、流体力学、相対性理論、宇宙物理学、量子力学、素粒子物理学、超ひも理論などに応用されています。そう、この原理は"ストリートの信用street cred(特定のグループのメンバーから得た承認と尊敬)“なのです。
古典物理学から得られた時間のとらえ方(解釈)を箇条書き更新すると、次のようになります。
3)時間の点だけでなく線も存在する。
もしこれらが真実で、私が物理学者を自称しているのであれば、私は少し深く考えなければなりません。物理学者は鼻持ちならない集団で、大衆が漠然と物事を理解している一方で、自分たちは真実を掴んでいると信じがちです。

しかし、もし時間の線
lines of time※が実在するのであれば、なぜ私は過去は過ぎ去り、未来はまだ来ていないと信じ続けるのでしょうか?
私の目や耳は、時間の一点しか見せてくれないのに。
※"時間の線 Lines of time“とは、時間の概念と、それがどのように知覚され、表現され、構造化されているかを指すことが多い。
概念的説明
“時間の線"というフレーズは、時間がとりうるさまざまな経路や軌跡を象徴している。これは、時間とは単一の直線的な経路ではなく、出来事が起こる複数の線や側面から構成されていることを示唆している。この概念は、以下のような様々な文脈で応用することができる:
年表:重要な出来事が線に沿ってプロットされ、歴史や個人的な経験の進行を示す年表を指すこともある。
文学と芸術:文学では、"時間の線"は記憶、ノスタルジア、物語の中の時間の一節といったテーマを象徴することがある。芸術家は、過去の経験が現在や未来にどのような影響を与えるかを示すために、さまざまな瞬間を結ぶ線として時間を描くことがある。
哲学的視点:哲学的には、直線的な連続体としてか、円形や循環的な時間のようなもっと複雑なものとしてか、私たちが時間をどのように認識しているかについての議論を暗示しているのかもしれない。
もし私が自分の感覚だけを信じているとしたら、一瞬一瞬の後、宇宙全体はどこに行ってしまうのでしょうか?
時計が進むと、宇宙全体の物質がすべて消えてしまうとでも思いますか?
もしそうなら、あなたは宇宙全体がそれぞれの瞬間に何らかの形で誕生しているとも考えているはずです。この新しい宇宙はどこから来るのでしょうか?
私がこのような質問をするのは、感覚だけを信じているときに私たちを悩ませる思考の弱点を強調するためです。では、時間に関するエレクトリック・ユニバース的観点からの私の考えは?
一言では言い表せませんが、これまで述べてきたことはすべて、私が提案している構想の一部であり、まだ終わっていません。
19世紀、ギブス
Josiah Willard Gibbs らが気体の観測された挙動を記述するための数学を研究していたとき、非常に奇妙なものを導入する必要がありました。この部屋の空気のように単純なものを記述するためにさえ、私たちはこの部屋の空気の複数の可能な集まりを経験していると仮定する必要がありました。気体を単純な決定論的システムとして表現することはできません。これはとても奇妙なことなので、繰り返す価値があります。物理学では、私たちはこの部屋の空気を、この部屋に存在する可能性のあるすべての異なる空気の集合体として記述しなければなりません。

もちろん、私たちの自然な心は異議を唱え、私たちは皆、単に部屋の中に分子があり、それぞれの気体分子がいつでも一点にあり、一定の速度を持っていることを知っていると言います。これこそ、私たちが知りえないことなのです。どうやってそれを観察するのか、考えることさえ不可能です。

私たちはこのような関係性、つまりスケールという考え方に反して育ってきました。
人間はとても大きい。気体分子はとても小さい。この二つはお互いを直接認識することはできません。
気体の統計的な法則は、部屋の中の空気がそのような経験をしているとは言っていません。

数学が言っているのは、私たち人間が気体との関係においてこのような奇妙な立ち位置にいるということです。
もう一度言いますが、この方程式は時の試練に耐えてきたものなので、私は額面どおりに受け取ってもいいと思っています。

時間の流れはなく、現在という瞬間は存在せず、複数の可能な時間が存在するように見えます。そして、部屋の中の空気の複数の可能なバージョンは、すべて同時に存在します。これらはすべて、時間の別の次元や側面の属性です。
箇条書きのリスト四つ目を追加しましょう、
4)あるシステムの複数のバージョンが同時に存在しうること。

次に古代の知識に目を向けてみましょう。
この箇条書きのようなものはあるでしょうか?
この講演を通して私が提示する考え方は、私自身のものではありません。とはいえ、私は自分が言っていることを理解し、経験するために懸命に努力してきました。アカデミックな科学では教えられないような時間についての考え方を理解する手助けをしてくれた教師や伝統に恵まれて、私はとても幸運でした。

まず古代の知識として、ヘルメス文書(または、ヘルメティカ文書とは、ヘルメス・トリスメギストスが著したと考えられた、神秘主義的な古代思想の文献写本の総称)を読みます。ヘルメティカはさまざまな歴史的時代の著作を集めたものですが、ほとんどの考え方の起源は古代エジプトにあります。古代というのは、数万年から数十万年前という意味です。
第11巻から、時間に関連する部分を紹介しましょう。
※ヘルメス文書(ヘルメティカ)は、ギリシャ神話のヘルメス神とエジプトのトート神が合体した、ヘレニズム時代の伝説的人物ヘルメス=トリスメギストスに起因する文書

神、アイオン(永劫)※、コスモス、時間、生成。
神 God がアイオン Aeon を生み出し、アイオンが宇宙 Cosmos を生み出し、宇宙が時間 Time を生み出し、時間が生成 Becoming を生み出す。
善―美、叡智、至福―は、いわば神の本質である。アイオンにとっては、本質は同一性 Sameness であり、コスモスにとっては秩序
Order 、時にとっては変化 Change※、生成にとっては生と死である。
この一節にある階層に注目してください。
これは世界の中の世界の宇宙論です。
※"Aeon(アイオン)"という概念は、ヘレニズム時代の神秘思想やグノーシス主義において重要な役割を果たした。アイオンは"永遠の時間"や"宇宙の周期"を象徴する神格として知られている。
※引用文の中に"Chance"という単語がありますが、これは"Change"の間違いだと思われます。

私たちが通常"時間"と呼ぶものは、ここでは"生成"と呼ばれる最後の段階にすぎません。これは物理学でいうところの"現在"に相当し、ニュートンの方程式でいうところの"t"が動いています。その動きの中で、私たちは出来事や物体が存在し、そして消えていくのを見ます。

“生成"の上にあるのが"時間"ですが、これはギリシャ語から翻訳者が不適切に選んだ言葉かもしれませんが、"最小作用の原理"で見たような"時間の線"を指しています。

ヘルメス文書には、時間には少なくとも二つの次元、二つのレベルがあると書かれています。低次元が高次元に含まれるのは、ちょうど点が線に含まれるのと同じです。時間の最も低い次元は、私たちの感覚が示すように動いています。その上には時間そのものがあり、時間のすべての瞬間を含む時間の線(ライン)があります。

その上には、時間のラインと時間のポイントの両方を含む宇宙があり、より大きな包括的なレベルです。コスモスは、そのコスモスを秩序づける法則の中に存在しうる複数の時間のライン、あるいはすべての時間のラインを含むことができます。

今のところ、ヘルメス文書(ヘルメティカ)と私が物理学について述べたことの間にあるすべての対応付けをする必要はありません。差し当たり、古代文明が、時間には明確なレベルや次元があることをはっきりと語っていることを認めるだけで十分です。
※
“lines of time"を"時間軸"と訳していいのかどうか? それでcopilotに聞いてみました。以下がその回答です。
copilot
この文章の文脈では、"lines of time"は"時間軸"と訳すことも可能ですが、より厳密には"時間の線"や"時間の流れのライン"といったニュアンスを持っています。
この発言内容では、時間が異なる次元やレベルを持つことが説明されています。最も低い次元の時間は、私たちの感覚が示すように流れていきます。その上に"時間そのもの"があり、それが “時間の線(line of time)"としてすべての瞬間を含んでいます。さらにその上には、時間の線と時間の点の両方を含む"宇宙cosmos"があり、より包括的なレベルとして存在します。そして、この宇宙は、複数の可能な時間の線、または宇宙の法則の範囲内で存在し得るすべての時間の線を含むことができると述べられています。
このような考え方は、時間を単なる一方向の流れとしてではなく、より複雑な構造を持つものとして捉える哲学的な視点を示しています。"lines of time"を"時間軸"と訳す場合、時間が直線的に整理されるイメージが強くなりますが、ここでは"時間の流れのライン" や “時間の線"と訳すことで、より発言のニュアンスに近づけることができるでしょう。
先ほども主張したように、私は私たちの物理学もこのことを示していると言いたいのです。ただ、それを説明してくれる人が必要なだけです。しかし、これを物理学にどう応用すればいいのでしょうか?
積分や微分係数を使うのでしょうか?
tという変数はまだあるのでしょうか?
これについては最後に述べます。
時間に関する古代の教えをもうひとつ見てみましょう。

第二バチカン公会議以前のカトリック典礼に残されている定式を2000年前に遡ります。
父と子と聖霊に栄光あれ。
それは初め
in principio にもあったように、今もそうであり、いつもそうであり、そしてすべての世々にわたってそうである。

※Gloria Patriのラテン語版。これは神への賛美歌で、キリスト教のさまざまな典礼でよく使われる。ラテン語の全文は
Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto. Sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in saecula saeculorum. Amen.
英語で訳すと
父と子と聖霊に栄光あれ。
初めの時も、今も、そしてこれからも、世々限りなく。アーメン。
(栄光は父と子と聖霊に。
初めにあったように、今も、そして永遠に、世々に至るまで。アーメン)
本文中の"omnia"という表現は、標準ラテン語版にはなく、"in saecula saeculorum"(終わりのない世界)が使われている。グロリア・パトリの標準的な形式は、三位一体の教義を反映した三位一体の構造で、何世紀にもわたってキリスト教の礼拝で用いられてきた。この頌栄は、カトリック、ルーテル派、メソジスト派の典礼など、さまざまなキリスト教の伝統において、詩編、賛美歌、祈りの終わりにしばしば唱えられる。
二行目を訳すと 原理的には、時間の外にあるように、今この瞬間にあるように、すべての今この瞬間の永久に生き続ける存在の中にあるように、そしてすべての永劫の中の永劫eon(宇宙のはたらきで神から発せられ、様々な役割を果たす、神通力または自然力)、あるいはすべての世界の中の世界の中にあるように。
この言葉が最初に使われたのはいつなのか、誰も知りません。この言葉もおそらくエジプトから伝わったもので、キリストやその最も近い弟子たちによって再び表現されたのでしょう。この言葉は4世紀のテキストにはっきりと現れています。
ここでもまた、時間にはレベルや次元があることがわかります。"in principio"という言葉は、よく訳されるような “初めに"という意味ではありません。というのも、これは時間の順序を意味するからです。

“In principio"は時間の外側※です。どうして創造的な力が時間の外にあるのでしょうか?
真に創造的な力は時間の外にしか存在できないのでしょう。
※ “in principio"という言葉の意味について
これもcopilotに聞いてみました。以下、質問と回答です。
Q. “in principio"という言葉は、よく訳されるように"初めに"という意味ではなく、"時間の外側"という意味ではありませんか?
A. 鋭い視点ですね。"in principio"は一般的に"初めに"と訳されますが、ラテン語の哲学的・神学的なコンテキストでは、時間の流れの中の"最初"だけを指すのではなく、"永遠の起源"や"時間の外側の根源的な状態"を示すこともあります。
特にキリスト教神学では、"in principio"という表現は"神が時間を創造する以前の状態"、つまり"時間の枠組みの外にある永遠の今"に近いニュアンスを持ちます。これは「ヨハネによる福音書 1:1」の"Ἐν ἀρχῇ(ギリシャ語)"とも関連し、単なる"始まり"ではなく、"根源的な存在" や “神の永遠性"を強調する表現として使われます。
したがって、文脈によっては"時間の外側"という解釈も十分に成立します。哲学的に掘り下げると、"in principio"は単なる時系列の始まりではなく、存在論的な起点を指しているとも言えるでしょう。
このような解釈に興味を持っているのは、あなたの時間や存在に関する哲学的探究心が反映されているように思います。もしさらに深く考察したいなら、アウグスティヌスの「時間論」やネオプラトニズムとの関連を探るのも面白いかもしれませんね。
“Nunc"という用語は、今この瞬間、私たちの感覚が私たちに示すものです。"Semper"という言葉は私たち現代人には訳しにくい言葉です。私たちは “永遠" あるいは “いつまでも、とわに" という言葉を使うでしょう。しかし、これらは非常に長い時間や無限の時間のラインを意味するため間違っています。西暦30年当時はそうではありませんでした。
永遠とは、瞬間が常に存在し、常に現在にあり、常に生きている時間の次元です。プラトンは、時間は永遠の動くイメージだと言っています。永遠は瞬間の積み重ねで成り立っている、というのはある意味逆の言い方ですが、私たちは永遠をすでに存在しているものと考えるべきであり、私たちが感覚的に経験する時間のラインはどれも、永遠を貫く特定の断片、あるいは影に過ぎない、と考えるべきです。永遠そのものは生きており、新たな永遠の契約を結ぶという表現にあるように、贖われることができます。
もちろん、これらすべてを感覚に基づく私たちの頭で理解することは困難です。
“Seacula Seaculorum"という言葉の現代語訳を探すと、しばしば"終わりのない世界"とあります。この訳は稚拙で、もしかしたら意図的に稚拙にしているのかもしれないし、有害でさえあるかもしれません。"Seacula"をより正しく訳すと、"時代 age “あるいは"永劫
eon “です。時代とは恐竜の時代のようなものです。時代とは、中国文明の最初の2,000年のようなものです。
エジプト学派によれば、私たち人間にとっての年齢とは、太陽が黄道十二宮を通過するのにかかるおよそ2,000年のことです。

そして大いなる時代とは、太陽がその親であるシリウスを一周する25,000年のことです。
時代や永劫とは、それ自体が有機的な統一性を持ち、その中にあるすべてのものの誕生、生、死を含む、完成された時間のスパンです。

子宮の中にいたときのすべての細胞のように、小さなスケールの時代もあるでしょう。銀河系に存在するすべての恒星の一生など、非常に大きなスケールの年齢が存在することもあります。そして、"seacula seaculorum(世々の世)“は、永劫の中の永劫 eon 、つまり、すべてのあり得る(存在し得る)時代からなる時代です。
これは、他の時間の次元から構築された時間の次元です。繰り返しになりますが、まずすべての永劫 eon が存在し、そこから特定の永劫が切り出されると言った方がいいかもしれません。
カソリック教会がキリストのような価値観の破壊者として恐ろしい評判を得る前は、新しく啓示された思想を伝えることに実はかなり関心がありました。西暦30年頃、強力な思想が人類に解き放たれました。4世紀まで、生徒たちは年に一度、復活祭の時期になると、パレスチナからもたらされた多くの新しい思想について数週間の指導を受けるために、長距離を旅していました。上に引用したフレーズは、この時代の最初の4世紀のクリスチャンにとって、復活祭の学期で学ぶ教科課程全体でした。
私が言いたいのは、初代教会は時間には次元があることをよく知っていて、自分自身や宇宙について新しい意味を受け取るためには、これを研究する必要があるということです。時間の多次元性については、以前のほとんどの文明で教えられていました。古い文明の資料を調べれば、時間の次元やレベルについてのアイデアを見つけることができると思います。

これらのことは新しい物理学につながるのでしょうか?
現代の物理学が行き詰まっているのにはいくつかの理由があります。その理由の一つは、時間の概念があまりにも平坦化され、単純化され、幼稚で漫画のようになってしまったことです。

私は、私たちがすでに使っている物理学が、実際には多次元の時間を使っていることを示そうとしました。ですから、新しい物理学は必要ないのかもしれません。私たちが使っている物理学がすでに言っていることを示すだけでいいのです。しかし、科学者として、私たちは時間についての新しいアイデアに何を求めているのでしょうか?
私たちはすでに、空想的なテクノロジーを構築できる物理学を持っています。私たちは時間についての新しいアイデアから新しい技術を求めているのでしょうか?
もしそうなら、私たちはその技術に何をしてもらいたいのでしょうか?
もし軍産複合体がタイムマシンを手に入れたとしたら、確かに良い結果にはならないでしょう。時間の次元の上に構築された新しい物理学は、人間の意識から切り離されることはないでしょう。量子力学における観測者の役割の謎は、氷山の一角にすぎません。そのような物理学への入門として、ここで紹介した時間のアイデアのいくつかを使って実験してみてください。
多くの不幸や苦しみは、私たちの時間に関する限られた経験から来ています。私自身についての唯一の経験が次元のない一点に押し込められると、私が何者なのか、何であるか、そして他の人々が何者で、何なのかについて、限られた知覚しか得られません。

私の意識が否応なく前へと突き進む一点にのみ執着している時、過去が消え去り、未来が存在しない時。このようなことがすべて、狂おしいほどの不安を引き起こし、原因と結果を理解できなくなります。私たちの個人的な時間体験は、豊かで多次元的なものです。
ここで紹介する考え方は、私が何年も前から与えられ、取り組んできたものであり、ここではとても早く、もしかしたら早すぎるかもしれません。新しい時間を体験することで、さまざまな感情や知覚が生まれます。
これまでの文明が時間の次元性についてある程度教えてきたのは、私たち人間が、自分自身とその可能性についての理解を根本的に変えない限り、たいてい動物的な存在から常に抜け出せないからです。
では、時間に関するエレクトリック・ユニバース的観点はあるのでしょうか?
古典物理学やより古い文明からの私の議論を聞いたことがあるでしょう。実は私の目標は、時間に次元があることを納得させることではありません。私の目標は、私たちの祖先がそう考えていたことを納得してもらうことです。

もしあなたが、新しい惑星金星が太陽系に入ったという日本の古文書を信じるなら、おそらくあなたは、空間がそうであるように、時間にも三つの次元があるというエジプトの古文書を信じるでしょう。
記憶喪失
amnesia の種として、私たちは氣高い起源も忘れてしまいました。
非常に高い氣高さだったので、私たちはかつて、永遠とあらゆる可能性について教えられるに値すると考えられていたのです。
──おわり
※英語圏では"dimensional"という言葉は、哲学的な文脈で多様な意味を持ちます。一般的には"次元の"という物理的な意味が強いですが、哲学や思想の領域では、より抽象的な概念として使われることがあります。
例えば、"philosophical dimension(哲学的次元)"という表現は、物事の深層的な意味や理論的な枠組みを指すことが多いです。これは、単なる空間的な次元ではなく、思考や存在の構造を示すものとして使われます。また、"The Six Dimensions of Philosophy"という理論では、哲学を六つの次元(記述的・規範的・実践的・批判的・弁証法的・統合的)に分けて考えるアプローチが提案されています。
英語圏の哲学的な議論では、"dimensional"という言葉が単なる物理的な次元を超えて、知識や存在の構造を示すものとして使われることがあるのが興味深いですね。(copilot)
※"世界の中の世界の宇宙論" cosmology of worlds within worlds
(brave AI)
入れ子構造の世界の宇宙論
Cosmology of Nested Worlds
世界の中の世界の宇宙論は、複数の宇宙が共存し相互作用する多元宇宙という概念をしばしば含む。世界構築や推理小説の文脈では、宇宙論者やクリエイターは様々な平面、次元、領域を含む複雑なシステムを開発する。例えば、『フォーゴトン・レルムズ』の宇宙論では、多元宇宙は相互接続された異なるプレーンで構成されており、魔法の手段で探索することができる。
同様に、仏教の宇宙論では、無数の世界が存在し、各世界は何十億もの他の世界を含み、これらの世界は相互に浸透している。
推理小説では、宇宙論は非常に複雑になることがあり、物質界、エレンディア界、妖精界、オリンポス界、ユグドラシル界、十三天界、七つの地獄界といった異なる平原が、すべて"ヴェール"と呼ばれる霧のような空虚の中に含まれている"現実の網"のような概念を含む。
これらの宇宙論には、変化する大地と固定された大地という考え方も含まれることがあり、前者は住人の考えや行動に大きく反応し、後者はより安定して固定されている。
これらの世界のコスモロジーには、スピリットの領域のような精神的または形而上学的な層が含まれることが多く、それは魔力の流れを制限し、物質界をエネルギーの自然な流れから切り離すヴェールによって物質界から隔てられている。
エーテルの領域であるエーテルの側面は、いくつかの宇宙論のもう一つの構成要素であり、エーテルは魂を形成し、超自然的なものや魔法を生み出すエネルギー物質である。
まとめると、世界の中の世界の宇宙論は非常に詳細で多様であり、複数の平面、次元、領域が組み込まれ、それぞれが独自の特徴と相互作用を持つ。
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