戦争犯罪と人道に対する罪(ドンバス)
ウクライナ軍は8年間、民間人を殺傷していた
「ウクライナで起きていたこと③」で予告させていただいた「ドンバスでウクライナの軍事・政治指導者が犯した戦争犯罪と人道に対する罪」の全訳です。この文書はジュネーブのロシア総領事館による「戦争犯罪と人道に対する罪──ドンバスでウクライナの軍事的・政治的指導者が行ったこと」と題された文書です。原文はアクセスが集中しているのか画像の容量が大きいのか、開くのに時間がかかります。
説明は必要ないと思います。ウクライナの現指導層は「ウクライナで起きていたこと②」で書いたようにナチス信奉者ですから。私が伝えたいのは、もしこれがロシアに関係した地ではなく日本や欧米の同盟国で起きたことなら、どうなっていたか想像して欲しいのです。
メディアに公平さを求める方は多いでしょうが、あり得ません。持ち主によって決められるからです。日本にも公共放送と銘打った放送局がありますが、看板を下ろした方がいいと思います。メディアは一種の宗教システムだと思います。思わせるゲームを人々にさせるのですから。
ときどき読ませていただいている「私の闇の奥」に「NHKを讃える」と題して「NHKのホームページに2022年2月24日のプーチンの講演全文の立派な日本語訳が出ていることを知らせて頂きました」という内容の記事があります。NHKの中に圧力に負けず立派な仕事をされている方がいらっしゃることを忘れてはいけないと思います。
閲覧に注意を要する写真が多く含まれるため、モザイクをかけて縮小して表示してあります。この文書のモザイクを掛けてない全画像はパスワードで保護された記事にまとめてあります。パスワードは最後に記します。
ドンバスの平和的住民に対する犯罪に関するロシア調査委員会のコメント
2014年から、ウクライナ軍はドンバスで戦火を交えるようになった。この間、約8年間、ウクライナ当局と軍国主義組織の代表は、事実上、ドネツクとルハンスクの自ら主張した人民共和国の民間人を駆逐してきた。
大口径の大砲、迫撃砲、手榴弾砲、そして軽火器からの止むことのない砲撃は、何千人もの命を奪った。犠牲者の中には、高齢者や子どもがいる一方で、重傷で命を落とした人もいる。例えば、弾丸の爆発から奇跡的に生還したワーニャ・ボロノフ君の話は有名だ。このような人たち、特に子どもたちは、武力紛争に参加することはない。それは、住宅、学校、病院、文化施設、重要なインフラ、公共交通機関などに対して高精度の火器を携行するウクライナ軍にとっても、同じように明らかである。にもかかわらず、ウクライナ当局はこうした無慈悲な攻撃に何の関心も示さず、市民に対する安全保障も何も与えていない。それどころか、この問題に関する有効な国際協定があるにもかかわらず、基本的にこの問題を無視し、軍の不正な活動を奨励している。
2014年以来、ロシア連邦の調査委員会は、武力紛争中に行われた人類の平和と安全に対するテロリズムと過激派の犯罪数百件を合法的に調査している。確立された事実に基づき、同委員会はウクライナとドンバスの動向に関して467件の刑事事件を開始した。これらの事件は、ウクライナの軍および政治指導部の代表者、過激な民族主義者組織である”右派セクター”、ウクライナ義勇軍、アゾフ分遣隊(ネオナチ)のメンバー、およびこれらの犯罪に関与しているすべての人々が関係していることを示している。
調査の結果、2014年4月から、ウクライナ側は、戦術作戦ミサイル複合体 ”トーチカ-U”、多連装ロケット弾 “グラッド" と “ウラガン"、無誘導空中ロケット弾、その他、広範囲に影響を及ぼす無差別行動の重攻撃兵器、および軽火器を使って2つの自ら主張した共和国の民間地域を空爆していることが確認された。その結果、数千人の市民が負傷または死亡し、2,200以上の市民インフラ施設が完全または部分的に破壊された。
死傷者の多くは、爆発物、小火器、軽火器を使用したウクライナ政府軍の砲撃によって引き起こされた。
訴訟手続き中、14万6000人以上が事情聴取を受け、約2500人の未成年者を含む2万2000人以上が犠牲者として認定された。現在までに、103人が武力紛争中の人類の平和と安全に対する罪として、欠席裁判で刑事責任を問われた。その中には、ウクライナの A. アヴァコフ元内相、I. コロモイスキー元ウクライナ・ドニエプロペトロフスク州知事、平和な住民を標的とした砲撃を行った旅団司令官とウクライナ軍将校が含まれている。
ウクライナ軍と当局は、禁止された技術や戦法を用いただけでなく、ロシア人ジャーナリスト、権利擁護者 A. ミロノフ、イタリア人 A. ロチェリを殺害した。彼らはまた、誘拐、ジャーナリストの合法的な活動の妨害、拷問、憎悪や敵意の扇動、攻撃的な戦争を始めるための公的な呼びかけ、その他の犯罪の責任者だ。
我々は、この犯罪者集団のメンバーがウクライナ保安庁(SBU)の関与のもとウクライナでロシア人を誘拐したという記録を持っている。犯罪者集団は彼らをウクライナ軍のメンバーと交換するつもりで、捕虜に重傷を負わせ、ウクライナ南東部の平和な住民を虐待し、苦しめ、拷問している。
先に、裁判所は、ロシア人ジャーナリストの殺害とロシア連邦の国家、国境の不法越境の罪で有罪を宣告された N. サフチェンコに判決を下した。また、S. リトヴィノフ被告は、ウクライナでロシア人を襲撃した罪で有罪になった。他の人々は欠席裁判で有罪判決を受けた。キエフ、ハリコフ、リヴォフにあるロシア外交施設に対する21件の襲撃事件が記録されている。さらに、ロシア人がウクライナ領土で選挙権を行使するのを妨害されたケースもあった。これらの犯罪に関与した人物は25人で、その中にはウクライナ最高議会の元議員 A. ロゾヴォイと V. パラシュクも含まれている。この件に関与した他の攻撃者を特定する作業が進行中だ。
捜査の過程で得られた証拠は、さまざまな国際司法機関においてロシアの立場を明確にするために使用されている。ロシアが ECHR(欧州人権条約、正式には、人権と基本的自由の保護に関する条約)に申し立てたウクライナに対する請求は、ロシア調査委員会が裁判所に提出した刑事訴訟の資料のコピーに基づくものである。それらは、ドンバスのロシア語を話す住民の大量虐殺、ロシアの外交施設に対する攻撃、ロストフ・オン・ドン地方での砲撃、ジャーナリストに対する殺人やその他の暴力行為に関する事件の資料である。
調査委員会の協力のもと、ロシアの弁護士は3万9000件以上のファイルを処理し、ウクライナ当局の行為に苦しむ人々のために約7,500件の訴状を作成し、ECHR(欧州人権条約)に提出した。これらの申し立てに基づき、修復されるべき損害の総額は350,000,000ユーロ以上にのぼる。
すべての違法行為が罰せられることはなかった。遅かれ早かれ、犯罪者はその責任を問われることになる。ウクライナ当局や法執行機関が、自国民の心を犯罪者にすることを容認すると考えるなら、ロシアの調査委員会はこの無法を容認しない。我々は、人類の平和と安全に対する犯罪、およびロシア市民に対する犯罪に関与した人々の有罪を証明するために、すべての証拠を記録し続けるだろう。調査委員会は、ドネツクとルハンスクで犯罪を犯した人々に対する処罰の必然性の原則を実行するためにあらゆる手段を講じている。
加害者の刑事責任を保証するものとして、ロシア調査委員会は、すべての違法行為に、その行為が社会にもたらす脅威に応じて対応し続けるだろう。
2014年から続く残忍な懲罰作戦の一環としてキエフ政権が行ったドンバス集落への大規模な砲撃の結果、数千人の市民が死傷した。
ウクライナ軍とネオナチの編隊は、国際人道法で禁止されている無差別行為による殺傷兵器を使用し、できるだけ効果的に人々を殺害し、インフラを破壊するように意図した。
人々はウクライナ軍が発射した砲弾だけでなく、飢餓、水や医薬品の不足によって死亡した。
キエフがドンバスに課した非人道的な水・経済・輸送封鎖は、この地域を人道的破局の瀬戸際に追い込んでいる。60万人以上の高齢者が年金やその他の社会的給付を受けられないまま放置された。
ここに、ウクライナ当局がドンバスの市民に対して行った犯罪の証拠の一端を垣間見ることができる。
※以下、閲覧注意
ペルボマイスク / ソコロゴフカ、2014年夏のウクライナ砲撃の民間人の犠牲者
犠牲になったドンバスの子供たち
ウクライナ軍は、病院、遺体安置所、学校や幼稚園を防空壕と化し、心の底からの冷笑 profound cynicism をもって攻撃を行った。
これらの残虐行為により、ウクライナの軍事的・政治的指導者とその西側の後見人の犠牲となった一般市民の集団墓地がにわかに(自然発生的に)出現している。
2021年12月現在、16基以上の即席の(自然発生的な)集団埋葬と個人埋葬が発見されている。2021年8月から11月までの間に、合計295体の人骨が回収、調査、処理された。ドネツク人民共和国(DPR)とルガンスク人民共和国(LPR)の領土のすべての埋葬で見つかった遺骨の最初の法医学的検査は、死亡者のほとんどが女性と高齢者であることを示している。
ドンバスにおける民間人の集団墓地の発見に関する刑事事件が開始された
国際的な合意や決議を無視して、2014年4月以降、ウクライナ軍の代表は人やインフラを排除することを目的とした見境のない行為である致死的な武器を使用して、ドンバスの居住地を絶えず標的にしている。その結果、住宅や重要施設が破壊されただけでなく、軍事衝突に参加していないロシア語圏の民間人数千人が死傷している。
ドンバス住民を抹殺する意図は明白である。ロシアの調査官は、禁止されている戦争手段・方法の使用と認定された数百件の事件を記録している。これらの犯罪の捜査の中で、調査官は、進行中の敵対行為のために必要に迫られて、特別に指定された場所の外に並べられた即席の印のない(自然発生的な無標)の集団墓地についての情報を得た。
このようにして、2021年8月から10月にかけて、スネジノエの町、スラヴャノセルブスクの集落、ペルボマイスク市のソコロゴーロフカ住宅地付近、ルハンスク近郊のヴィドノエ-1村、クラスノドンスキー地区のヴェルフネシェヴィレフカ村の郊外で5つの即席の(自然発生的な)大量の墓が発見された。
これらの墓からは、2014年にウクライナ武装隊による無差別砲撃の結果死亡した少なくとも295人の民間人の遺骨が掘り起こされた。遺骨の中に年齢の異なる女性の遺体があることは既に明らかになっている。
ロシア連邦捜査委員会主要捜査部門は、この事実について、刑法第356条第1項(武力紛争における民間人の非処遇、国際条約で禁止されている手段・方法の使用)に基づき刑事事件として捜査を開始した。
調査委員会は、ドネツクおよびルハンスク地域における犯罪の責任者に対する処罰の必然性の原則を堅持するために、あらゆる手段を講じ続けている。
ソコロゴーロフカで発見された大量埋葬、2020-2021年
2014年から2015年にかけてウクライナ軍がドンバスで使用した戦術ミサイルシステム
ウクライナ軍はドンバスで戦術ミサイルシステム”トーチカ” ”トーチカ-U”を繰り返し使用している。2014年9月1日、ルハンスク人民共和国の領土で、様々な改良を加えた8基の”トーチカ”ミサイルの部品(通常は燃料タンク)が発見された。以下の情報は、回収された場所、ミサイルが発射された日付、回収された識別マークを示している。
1) アルチェフスク、2015年2月2日、 9М79-1 Ш91565
2) ルハンスク空港、2014年8月、 9М79-1 ВГ890349
3) ルハンスク空港(変電所)、2014年8月 9М79-1 ВГ910830
4) ルハンスク、2014年8月15日、 9М79М Ш89455
5) ノヴォスヴェトロフカ、2014年8月、 9М79-1 Ш89816
6) ロヴェンキ、2014年8月22日、 9М79-1 ВГ910820
7) テルノヴォエ(クラスノドン)、日付不明、9М79-1 ВГ910827
8) ルハンスク地区ユビレイニ、2014年8月、 9М79-1 ВГ890343
2014年8月22日午後8時30分頃、ウクライナ軍がロヴェンカ市に対してミサイル攻撃を開始した。砲撃の結果、2008年生まれのアレクサンダー・セルゲヴィッチ・ソローキン、アレクサンダー・イワノヴィッチ・ホティンスキー、ナタリア・ウラジミロヴナ・ホティンスカヤ、アレクセイ・ペトロヴィッチ・ポリアコフが榴弾(一発の弾丸の傷よりも手術し難い)による傷から死亡した。ロモノーソフ通り、オレグ・コシェボイ通り、チャイコフスキー通りにある家屋は、屋根、外壁、隣接する地域に被害を受けた。オレグ・コシェボイ通り8番地の家の中庭で、”トーチカ-U”ミサイル(9M79-1 ВГ910820)の燃料タンク本体が回収された。
2014年8月15日、ルハンスク第3市立病院の区域で標識付きミサイルの部品が発見された。その直後、”トーチカ-U”燃料タンク(9M79M Ш89455と記された)の本体が発見された。
2015年2月2日、アルチェフスク市付近で「Tochka-U」ミサイルが撃墜された。その後、”トーチカ-U”ミサイルの燃料タンク本体(9M79-1 Ш91565と記載)が回収された。
アルチェフスク市、2014年8月
ユビレニ、2015年2月2日
生存者の声
「この庭に来るのはとてもつらいです」
ドネツク州の砲撃で4歳児がドローンに殺される
2021年4月3日、ウクライナ軍(AFU)は休戦協定に違反し、ドネツク州郊外で発砲した。重火器やドローンで住宅地を砲撃した。
ドローン1機がアレクサンドロフスコエ村の家の庭に爆発物を投下し、4歳の男児が死亡、66歳の祖母が負傷した。ドネツク人民共和国人民軍によると、ウクライナ軍が攻撃を開始した午後3時頃、ヴラディク・ドミトリエフは庭で遊んでいた。
ヴラディクの祖母ナタリヤ・テレンチエバは、爆発が起こった時、孫と一緒に庭にいた。彼は目の前で死亡し、祖母は破片の傷を負った。
テレンチエバは、爆発後に見た恐ろしい光景を思い出す。爆風が子供の手足を引き裂いたのだ。
「それ以外、何も覚えていないんです。体験してみないとわからない。自分の孫がこの庭で死んだと知って、この庭に来るのはとてもつらいです」
ヴラディクは4月5日に埋葬された。葬儀には近くの家から何十人もの人が参列した。4月3日、停戦と線引き安定化のための統制・調整合同センターの代表者は、ウクライナ軍がドネツク地方への砲撃を強化したと発表した。この時、ウクライナ軍の砲撃による民間人の死亡は、この数週間で2人目であった。
「目の前で砲弾が爆発しました」
ドネツクに住む70歳の女性は、ウクライナの砲弾の破片を目に入れたまま生活している
2014年7月24日、ドネツク周辺では多くの軍事行動が行われ、街とその周辺地域はウクライナ武装勢力による大規模な砲撃にさらされた。この攻撃で多くの罪のない市民が負傷したり死亡したりした。
生存者の中には、生涯の傷を負ったリュドミラ・カサトキナ(70歳)がいる。カサトキナはロシア・トゥデイのインタビューで、2014年夏の出来事を振り返った。
大変な時期だった。ドネツクの住民は、いつ攻撃が来るか分からないので、日常生活を送りながら常に警戒しなければならなかった。カサトキナは退職し、ドネツクのペトロフスキー地区の家に住んでいる。地下室に避難し一晩を過ごすこともあった。
2014年6月24日の朝、彼女は庭で仕事をしているときに初めて砲弾の爆発音を聞いたと振り返る。音がだんだん大きくなったので、リュドミラは急いで地下室にたどり着いたが、間に合わなかった。
「玄関まであと少しというところで、十数メートルのところで砲弾が爆発して、破片のうねりにやられたんです。家の中に逃げ込んで、鏡を見ました。恐ろしかった。顔が血まみれになっていました」
リュドミラはパニックに陥らなかった。傷口を洗い、翌朝まで地下室に隠れていた。しかし、傷はさらにひどくなった。炎症が広がって、右目が痛くなった。もう1日待って、医者に診てもらうことにした。
頭蓋骨に刺さっているため、高齢者には手術のリスクが高すぎるということで、手術ができない状態だった。それ以来、カサトキナは常に医療支援を受けることを余儀なくされ、右目は失明してしまった。
「大きな爆発音がして、電話は切れた」
ドネツクで人道支援を受けるために列に並んでいたアンヘラ・バグダサリャンさんが殺害された
2015年1月30日、ウクライナ政府軍がドネツクの複数の地域を砲撃し、数十人の市民が人道支援を受けるために並んでいた同市のクイビシェフスキー地区に悲劇がもたらされた。子供1人を含む数人が死亡した。
ドネツクに住む32歳のアンジェラ・バグダサリヤンは、その日の朝早く、民間のチャリティー団体が支援物資を配布していたコミュニティセンターに行っていた。正午、彼女はまだ列に並んでいると父親に電話した。その約30分後、街は砲撃に見舞われ、砲弾の爆発音が響いた。
「私は娘の無事を確認するため、再び娘の番号に電話をかけた。大きな爆発音がして、アンジェラが叫んでいた。その後、電話は切れた。何度かけても出ないんです」とアンジェラの父バルタン・バグダサリャンは振り返る。
何度電話してもダメだった。そして、自ら公民館に出向いた。近づくと、救急車が何台も走っている。軍隊と警察に囲まれ、たくさんの死体が散乱していた。
「アンジェラが生きていることを祈りながら、探し始めたんです」とバルタンは言う。
避難所のすぐそばに娘の死体が横たわっているのを発見した。砲弾の破片が頭部を直撃し、即死状態だった。
「ガラスの破片が飛んできました」
ドネツクの砲撃で負傷してから7年、ガリーナ・クチマはまだ回復していない
2014年10月20日、ウクライナ軍がドネツクとその周辺に榴弾砲と重砲で砲撃した。多くの住宅が損壊・破壊され、人々は防空壕に数時間身を隠さなければならなかった。運悪く間に合わなかった人たちは重傷を負った。
46歳のガリーナ・クチマもその一人だった。ドネツクに住む彼女は、午後3時ごろに砲撃が始まったとき、まだ家にいたとロシア・トゥデイに語った。彼女は防空壕に行くことができなかったが、攻撃が始まってから1時間後に勇気を出して台所に行ったという。
その時、家の前で砲弾が炸裂した。
「爆風で窓ガラスが割れました。ガラス片が飛んできて、左腕に当たった。腕から血が流れました。しびれて、指が動かなくなった」クチマはこう振り返る。
助けを求めると、近所の人たちがすぐに駆けつけてくれた。近所の人たちは、クチマの腕からガラスの破片を引き抜き、病院に連れて行ってくれた。
ガリーナの左腕は開放骨折で、脱臼していた。医師は腕を縫合し、ギブスで固定した。1ヵ月半の通院治療と1ヵ月のリハビリ。7年たった今でも、クチマの左腕は完全には回復していない。
「砲火を浴びて」
フリージャーナリストのアレクサンドル・ガユクは、キエフのドネツクへの砲撃を取材中に榴散弾を受けた
2015年6月14日、ウクライナ軍はドネツク州の集落をまだ砲撃していた。市内のいくつかの地区で住宅が直撃した。その日、合計8人が負傷し、その中にはアレクサンダー・ガユクという若い記者もいた。
33歳のこの記者は、オクチャブリスキー地区の住民が絶え間ない砲火の中で暮らしている様子を取材するため、ドネツクのクイビシェフスキー地区に行っていた。そして、偶然にも、彼が現地に到着した直後から、再び砲撃が始まった。
最初の砲弾は5階建ての住宅の屋根を直撃した。急いで隣のビルに隠れようとしていたアレクサンダーの背後で、また砲弾が炸裂した。
「その砲弾が木に当たって、その破片で右ひざを痛めました。倒れました。砲撃が止んでから、苦労して起き上がると、足から血が流れていました。骨に異常がないかどうか、指で探ってみました。ベルトを締めて止血し、車を止めて病院に連れて行ってもらいました」
地元の病院で緊急手術を受けたが、膝はまだ痛んでおり、現在も激しい膝の痛みに悩まされているという。
「煙と血の海」
アナスタシア・ルバン、ウクライナ軍による故郷の海岸への砲撃の日を語る
2014年8月13日、ドンバスの小さな町ズグレスはウクライナ空軍の標的となり、多くの家族が一日を楽しんでいた公共のビーチはそこでも砲撃の餌食となった。その日、20人以上が死亡し、数十人が負傷した。その犠牲者の中に、地元に住むアナスタシア・ルバンがいた。RTのインタビューで、彼女はその悲劇的な日の詳細を振り返っている。
24歳のアナスタシア・ルバンは、2歳の息子マクシムと友人のデニス・デリュジキンとビーチにいたところ、ウクライナ軍がスメルヒ重連装ロケットランチャーで砲撃してきた。砲弾のひとつが彼らのすぐ隣に着弾した。
「デニスは、私とマクシムを自分の身体で何とかかばいました」とアナスタシアは言う。
「事態が落ち着いたとき、私は立ち上がって息子を抱きかかえ、海岸からできるだけ遠くへ逃げ、隠れました。デニスは血まみれで、浜辺に横たわっていました」
近くの茂みに息子を隠し、急いで戻ってみると、友人は頭を負傷し、全身を榴散弾で切り刻まれていた。彼女も大腿部と腕に負傷していた。あまりの出血に頭がくらくらし、意識を失った。
負傷者の救護のために駆けつけた人民民兵に助けられ、意識を取り戻した。意識を取り戻したアナスタシアは、息子を探し回ったが、どこにもいない。
結局、砲撃が止んだ後、家族の友人が海岸で子供を見つけ、家に連れて帰ってくれた。デニス・デリュジキンも一命を取り留めた。とはいえ、手術室では医師が数時間にわたって命をかけて闘わなければならなかった。
アナスタシアは、あの日の怪我を今でも引きずっている。
「戦争犯罪と人道に対する罪(画像)」のパスワードは「truth」です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。