ヴェリコフスキー事件 ─ 科学主義 対 科学①『衝突する宇宙』をめぐる科学界を揺るがした論争の全貌
アルフレッド・デ・グラツィア監修による「ヴェリコフスキー事件 ──『衝突する宇宙』をめぐる科学界を揺るがした論争の全貌」を3回に分けて連載します。
第一回目は、アルフレッド・デ・グラツィアの序文とラルフ・ジョーガンズによるヴェリコフスキー論争の経緯です。序文で著者は「この問題こそが、ヴェリコフスキー博士と共著者のラルフ・ジョーガンズ、リヴィオ・ステッキーニとの長時間に及ぶ非常に骨の折れる啓発的な議論を重ね、さらにヴェリコフスキー自身の資料室で長い時間を費やした末、1963年9月にようやく発表された」と記しています。
ラルフ・ジョーガンズは「本稿はイマニュエル・ヴェリコフスキーの著作をめぐる10年以上にわたる論争を記録している。しかし物語は1963年で終わらない」と記し、当時、何が起きていたのか、その経緯が詳しく論じられています。当時の科学界の権威ある方々、学者の『衝突する宇宙』出版に対する卑劣で傲慢な態度には呆れるばかりです。今でも変わりませんが。ちなみに、これまでヴェリコフスキーの記事は書いてきましたが、これほど詳しい記録を目にするのは初めてです。
第二回目は、リヴィオ・ステッキーニ博士による論考です。哲学的な視点からの論考で、このような視点からの考察は初めて触れたので、正直なところびっくりしました。例えば、
「ニュートンの膨大な未発表著作は錬金術から政治まで多岐にわたるが、その大半は神学が占め、次いで古代史が続く。これらの未発表著作は単なる気まぐれな試みとして片付けられない。彼は科学著作以上にこれらに時間を費やしており、同様に論理的かつ完成度が高い。彼の全著作は統一された思想の流れを構成しており、科学的な成果はその一面に過ぎなかった」
さらに「バビロニアおよび聖書の天文学、年代学、神話学における著名な権威であるフランツ・クサーヴァー・クーグラー神父」と楔形文字文書関連の考察は必見です。
第三回目は、アルフレッド・デ・グラツィアの論考とヴェリコフスキー博士の論文、付録が収録されています。グラツィアの論考は前半、内容はかなり難解ですが、後半のヴェリコフスキー事件の経緯について、ラルフ・ジョーガンズとは別の視点からの分析は興味深いです。
蛇足ですが、付録にもあるように、ハーバード大学天文学者セシリア・ペイン=ガポーシュキンという方の、いい加減さ、間違った引用、意図的な歪曲には驚きました。とは言うものの、この人、ネットで検索すると、称賛の記事がズラッと出てきます。
最近、3I/ATLAS が話題になっています。彗星の主流理論はいまだにダーティー・スノーボール説です。彗星は"汚れた雪だるま"なんだそうです。簡単に言うと、彗星が太陽に近づくと熱で蒸発して後ろに尾ができるという説です。単純ですね。技術は進歩していますが西洋医学と同じで浅いです。ですから、進行方向と反対に何かが出ていると、なんだろうということになります。それで、エイリアンの宇宙船だとか騒ぐ人も出てきます。話としては面白いかもしれませんが、彗星から噴出しているのは妄想の爆発です。妄想が妄想を生み、、、ちょっと笑えます。
これ、電気現象です。太陽系外ということもあって電荷の違いでプラズマ現象が発生します。NASAは隠しているのではなくて、主流理論では説明に困っているというだけの話です。もっと接近すればさらに不思議だとされる現象が起きるでしょう。参考までに、彗星の解釈がわかりやすく書かれていたので。Yahooニュースから引用します。
彗星が太陽に近づくと、その熱で氷が蒸発し、閉じこめられていた塵が宇宙空間に放出されて、尾ができる。この塵の粒子は、太陽の光によって軽く後方に押されるので、彗星の尾は通常、太陽の反対側にできる。しかし、最近の観測で、3I/ATLASには太陽の側にできる「アンチテール(反対尾)」があることがわかった。
アンチテールは珍しいが、説明できない現象ではない。太陽に面した側で彗星から重い破片が放出されると、太陽の放射圧に押し返されることなく、太陽の方向に尾が伸びることになる(尾が向きを変えるのは探査機のスラスターである証拠だという意見もあるが、そうではない)。
『衝突する宇宙』をめぐる科学界を揺るがした論争の全貌

Alfred de Grazia, “THE VELIKOVSKY AFFAIR, The full story of the WORLD IN COLLISION
controversy that shook the scientific world"
アルフレッド・デ・グラツィア ヴェリコフスキー事件『衝突する宇宙』をめぐる科学界を揺るがした論争の全貌
ヴェリコフスキー事件
科学主義 対 科学
アルフレッド・デ・グラツィア編
寄稿者
ラルフ・ジョーガンズ
リヴィオ・C・ステッキーニ
アルフレッド・デ・グラツィア
イマニュエル・ヴェリコフスキー
Copyright © Alfred de Grazia, 1966, 1978. All rights reserved.
目次
第二版 序文 アルフレッド・デ・グラツィア著
第一版 序文 アルフレッド・デ・グラツィア著
1. 混沌の中の知性(ラルフ・E・ジョーガンズ著)
2.『衝突する宇宙』出版後の波紋(ラルフ・E・ジョーガンズ著)
3. 移ろいゆく天界(リヴィオ・C・ステッキーニ著)
4. 楔形文字天文記録と天体の不安定性(リヴィオ・C・ステッキーニ著)
5. 天文理論と歴史的データ(リヴィオ・C・ステッキーニ著)
6. 科学的受容システム アルフレッド・デ・グラツィア著
7. 正しい予測の追加事例 イマニュエル・ヴェリコフスキー著
付録Ⅰ- 木星と金星に関する最近の発見について
付録Ⅱ- ヴェリコフスキーの"信用失墜":テキスト比較
(注:本1978年版ではイギリス英語表記を採用)
第二版 序文
アルフレッド・デ・グラツィア 1978年1月
本書は、科学者がどのように行動し、科学がどのように発展していくかに関心を持つ人々に捧げる。本書は特に、科学者が互いに与えたり遠ざけたりする自由について扱っている。本書はまた、宇宙観の新しい理論、つまり私たちが見ている空、地球、そして人類の原因に関心を持つ人々のための本でもある。最後に、本書は人間同士の争い、この場合は現代で最も教養があり、高尚で文明的な人物たちの争いに魅了される人々のための本である。
これらの文章は、知的なサークルにおけるイマニュエル・ヴェリコフスキーの高まりつつある立場を攻撃する、入念に準備された本の刊行から数週間後に書かれている[1]。この攻撃は、雑誌『クロノス』の特別号における痛烈な反撃に即座に続いていた[2]。これらの出来事は、この著作が初めて登場して以来、おそらく研究に没頭する学者よりも、従軍記者の気質に合致する一般的な状況を反映している。
哲学的心理学者のウィリアム・ジェームズは、かつて戦争の代用品としてスポーツを提唱したが、科学と学問を同じ機能として提唱してもよかったかもしれない。科学的な戦いにも、軍隊、ルール、戦術、予期せぬ展開、抑えきれない情熱、敗北、撤退、死傷者リストがある。戦争に関わるすべての動機が行使される。現在の論争においても、戦闘参加者の心は、そのイメージを否定するしないにかかわらず、世界が巨大な災害によって破滅した遠い過去のイメージを戦いに持ち込まなければならない。
スポーツとは異なり、科学的な戦いの結果は、明白な戦争の結果と同じくらい、いやそれ以上に重要である。ヴェリコフスキーの思想をめぐる論争では、科学がそれ自体を変化させるために用いるシステム ─ これが本書の主な主題である ─ だけでなく、未来の科学が採用すべき変化の実質的モデル ─ が、主に革命的で破滅的なものとして理解されるべきなのか、それとも進化的で調和するものとして理解されるべきなのか ─ も問題になっている。
この論争には多くの興味深い側面がある。ひとつは、一般市民の参加が多いことである。この参加は増え続けている。ヴェリコフスキーは、神話学、考古学、天文学、地質学について、それらの学問分野を不当に扱うことなく、驚くべき前例のない方法で人々に語りかけることに成功した。ソクラテス、アリストテレス、ガリレオ、フロイト、アインシュタイン ─ “群衆現象"に関与した思想家を挙げればきりがないが ─ は、ここで言う意味での著名な人物ではなかった。彼の大衆は、品行方正で教養があり、善意ある多様な人々の集合体であり、あらゆる機会にヴェリコフスキーを支持してきた。彼がロシア訛りの外国人であること、精神科医であること、明らかにユダヤ人であること、アメリカやイギリスで最も尊敬されている科学者たちから非難されていること、その人柄と科学への忠誠を曲げないこと、デマゴギー的・宗教的な方面からの支持をことごとく拒否していること…… これらの事実は、多くの大衆が彼に与えた好意的な歓迎を妨げるものではなかった。
彼がカリスマ的存在であることは明らかである。1974年にサンフランシスコで開催された批判的な科学シンポジウムでは、1,400人が彼の講演に出席し、スタンディングオベーションを浴びた。しかし、"カリスマ性"というのは少々専門用語のようなので、"なぜ" という疑問が残る。答えはまた別の機会に譲るが、ここでは彼の思想が、教養ある人々が、自身の知識であれ、科学の指導者の知識であれ、現代の"知識"について抱く正当な不安のすべてを代表しているのではないかと示唆したい。
私は15年間、"ヴェリコフスキー事件"と向き合ってきた。なぜこの事件に関わるようになったのか、とよく聞かれる。時には同僚から質問されることもある。彼らは私と同じように、100万人、いや200万人もの熱心な読者が『衝突する宇宙』のような本に意味を見出せる一方で、多くの科学者や学者はこの本を理解できず、怒りに任せて背を向け、好意的な読者を全員、神の言葉を受け入れた宗教復興主義者の仲間入りをさせてしまうのはなぜなのか、と疑問に思っている。
しかし、私の入門には、英雄的なもの、カリスマ的なもの、啓示的なもの、あるいは並外れたものなどほとんどなかった。『衝突する宇宙』が出版された1950年は、私の若いころの人生において多忙な時期だった。私には数人の乳児がおり、新しい教授職があり、当時猛威を振るっていた朝鮮戦争での心理作戦に少なからず関わっていた。そのため、この本の出版差し止めと成功をめぐるスキャンダルは、私の心にかすかな擦り傷しか残さなかった。
しかし1962年、私がプリンストンで『アメリカ行動科学者』誌を出版・編集していた頃、同じくプリンストン在住の科学史家リヴィオ・ステッキーニ博士が、ヴェリコフスキー博士という人物について繰り返し私に語った。彼もプリンストンに住み、科学界の権威によって迫害されていたという。私はステッキーニの話に乗り気ではなかった。科学と出版の歴史は、政治と同様、誤ってあるいは拙く提起された事例、世間の注目を集めようとする絶望的な理論、迫害意識に満ちているからだ。
さらにまたある晩、兄の家で別れを告げている時、私はイマニュエル・ヴェリコフスキーという人物の著書『オイディプスとアクエンアテン』を見つけた。未解決の刺激が好奇心の高まりを引き起こした。私はそれを借りた。些細な邪魔にも妨げられず、最初から最後まで一気に読んだ。これは真の探偵文学の傑作だと思った(この判断は今や確信に変わった)。そしてステッキーニ博士に電話し、面会を申し込んだ。
ヴェリコフスキー博士と話しながら ─ 人の人生において印象的な経験である ─ 私は、博士が所蔵する事件に関する資料のアーカイブを紹介された。それは驚くほど豊かで整然としたものだった。何回かの長いミーティングと彼の資料を読みあさった後、私は、科学史にはこれほどよく記録された事件はほとんどない、と結論づけた。私は『アメリカ行動科学者』誌の特集号を「ヴェリコフスキー事件」に当てることにした。
この問題こそが、ヴェリコフスキー博士と共著者のラルフ・ジョーガンズ、リヴィオ・ステッキーニとの長時間に及ぶ非常に骨の折れる啓発的な議論を重ね、さらにヴェリコフスキー自身の資料室で長い時間を費やした末、1963年9月にようやく発表されたものであり、それが本書の基礎となった。私の歴史観はトルストイアンである。それでも、この問題に対する反応はすぐだった。エリック・ララビーという宣伝担当者は、ダブルデイ社と長年にわたってこのテーマに関する本を書く契約を結んでいたが、ハーパーズ誌にヴェリコフスキー事件に関する記事を掲載するよう駆り立てられた。この『アメリカ行動科学者』誌は、ジョーガンズとステッキーニによる新たな寄稿を加えて増補され、2年後にユニバーシティ・ブックスから出版された(現在の版では、ステッキーニ博士が寄稿文を改訂し、多くの新しい資料を加えている)
後述する特筆すべき例外はあるものの、本書は概ね好評を博した。科学界の地下組織 ― 財団や政府機関といった謎めいた領域を含む ― の多くからは反発を受けた。そこではヴェリコフスキー博士とのいかなる関わりも、差別や報復を招きかねない。しかし、本書の出版を支持した読者の面々が持つ優秀さは、公的な攻撃に対する強力な障壁となったに違いない。提示された証拠を前にして、この本の二つの主要な主張 ― ヴェリコフスキー博士が不当な扱いを受けたこと、そして彼が提唱する一連の命題は科学と人文科学によって真剣に検討されるべきであること ― に反論するのは難しい。この本を読むと、教室や専門会議、カクテルパーティーで出会う多くの科学者を苛立たせる立場に、合理的に立つことになるようだ。
1962年にヴェリコフスキー事件の社会学的・法的な側面に初めて注目した時、私は天変地異説と斉一説、あるいは革命説と進化説という本質的な問題に対して、魅了された観客のような興味を持っていた。しかし間もなく、一つの疑問が執拗に頭をよぎるようになった。"激変説論者のジャングルに埋もれた歴史には、誤った導きと愚かさしか存在しなかったのか? それともそこに、宇宙生成論の代替モデルが潜んでいたのか?"。私は十数年にわたり、より適切な用語がないため"完新世宇宙生成論"とも"革命的原始学"とも呼ぶこの思想の本質を追求してきた。そしてこの資料が初版された当時よりも、はるかに知的レベルでヴェリコフスキー博士のアプローチに傾倒している。
同じ道を歩む者たちからの励ましを得て、私は二つの部分からなる相互的な答えにある程度の確信を得た。今日の科学の偉大で多様な発展の中に、斉一説に反する完全な宇宙生成モデルを阻むほど “真実" な “事実" は存在しない。一方で、革命的なモデルの構築に十分な “事実" は存在する。
ヴェリコフスキーの政治・科学領域との関わりの中で、数多くの関連する出来事が私の記憶に刻まれている。近頃起こった一件は、本書の妥当性を示す最も端的な証言の一つであり、もちろん間接的で態度をはっきりさせない形ではあるが。新版ブリタニカ百科事典が最近刊行された。その広大な斉一説と進化論の領域の中に、ヴェリコフスキーに関する伝記記事が掲載されている。私は、百科事典全体の枠組みの中で、この記事が概ね受け入れられる内容であると判断した。しかしながら、それから2年ほど後、同百科事典の『年間ベストブック』編集長であるローレンス・K・ラスティグは、疑似科学への全面攻撃の中で、ヴェリコフスキーに対する是認された否定的な見解を記した記事をそこに掲載する衝動に駆られた。私はラスティグ博士に手紙を書き、彼の立場を非難した。彼は返事をくれたが、その立場をわずかでも撤回することはなかった。
ところが、英国のスフィア・ブックス社から本書の出版提案が届いたその同じ日に、ニュージャージー州プリンストンで大規模な新百科事典を編纂中の編集長となったラストイグ博士からの手紙も届いた。彼は私に、その百科事典向けに “自由" “宗教の自由" “言論の自由"の項目を執筆するよう依頼してきた。この出来事が、本書の誠実さに対する賛辞と受け取られるなら、また、本書の哲学的原則を擁護することが、長きにわたる困難な研究とキャリアの成果を否定されるのではないかと恐れる、老若を問わず学者たちにとって励みとなるかもしれない。
ウィリアム・マレン教授と私は別々に論文を発表し、ヴェリコフスキーの思想が様々な学問分野に及ぼす影響を"事前に予測"している[3]。この影響を政治的に利用するにあたり、学者志望者や学者変節者には二つの道が示される。論争を避け嘲笑を恐れる慎重な者にとって、今や多くの障壁が取り除かれた以上、支配的な秩序が進化論的である科学領域に革命的仮説を導入することは比較的容易である。ただしヴェリコフスキーとその学派の著作を引用しないことが条件だ。例えば、ヴェリコフスキーの名を出しさえしなければ、ホモ・サピエンスの革命的思考転換について論じても称賛されるだろう。昨年、ジュリアン・ジェインズ(プリンストン大学心理学教授、二分心で知られる)がそうであったように[4]。あるいはウォーゼルがそうしたように、海底の破局的堆積層について論じつつ、"宇宙起源の天体の炎の終焉"という小さな逃げ道を残すことも可能だ[5]。また、ギリシャの"暗黒時代"という百年続く概念を葬り去る際、アイザックソン[6]を引用する必要もない。特にアイザックソンは実在せず、キャリアを危惧する若手学者のペンネームに過ぎないからだ。新たな思想風土のもとでは、ヴェリコフスキーに言及せずともこの概念を批判できる。
学者なら、ヴェリコフスキー派文献に既に明示され証拠で裏付けられた数百の仮説について、彼の名を挙げずとも安全に論証を展開できる。出典引用に通常は熱心な権威者たちも、今回は寛容に受け入れるだろう。学者は今や、革命的理論という酩酊する酒に耽溺できる。ただし、その醸造物を"薬用"とラベル付けする条件付きで。結局のところ、警察当局も共謀しているのだから。いや、彼ら自身がすでに酒に溺れている可能性すらある。化学地質学者でノーベル賞受賞者のハロルド・ユーリーを思い出す。彼は時折ヴェリコフスキー支持者を叱責したが、自身も彗星や小惑星といった天体が地質形態学や古生物学における"時代の断絶"を引き起こす可能性を推測していた[7](古代人が “惑星の神々の誕生と死が時代を創り壊す"と説いたように)。
あるいは、功績は功績として認めるべきだ。ある学者は、自らの研究の出典を誠実に告白するかもしれない。そうすれば、彼のような犯罪者を裁く法廷はすぐに満員になり、長い間裁判にかけられる心配をしなくて済むだろうと期待して。その時には、急速に変化する信念の風潮が、彼の罪を正当な行為へと変えているだろうと信じて。
この素晴らしい日はいつ訪れるのか? 『ヴェリコフスキー事件』初版から10年後の1973年、彼のグループは米国科学振興協会(AAAS)が彼の研究に関するシンポジウムを開催するという知らせに歓喜した。1975年2月25日、このシンポジウムは全米最大の科学組織の大会において、史上最多の聴衆を前に開催された。シンポジウム前後の活動、その議事録、そして余波について一冊の本をまとめることは、科学社会学者にとって価値ある目標となるだろう。それは未だ書かれていない。しかし、本論の冒頭で言及した二つの著作は既に刊行されている。一方はヴェリコフスキーを鋭く批判する内容であり、他方は同様に強く支持する内容である。両著作とも、主に『衝突する宇宙』[8]で提示された金星と火星に関するシナリオの実質的な理論に関連していた。
膨大な証拠を提示せずに、この複雑な論争についてここで判断を下すのは不適切だ。しかし、この本の読者が最終的に全容を知ったとしても、驚くことはほとんどないだろうとまでは言える。賛成派も反対派も含め、関与した全ての関係者、そして AAASや報道機関といった集団も、まさにその役割通りに行動した。
付け加えるなら、科学界の権威者たちは今や、適切な形式と正しい公的姿勢を保つことに一層巧妙になっていた。まるで本書を読み、それに従って振る舞おうとしているかのようだった。ヴェリコフスキーに反対した5人のパネルメンバー(司会者も含む)の間には、彼の著書『衝突する宇宙』への一定の親しみが感じられた。彼は孤立していたのだ。結果として、体制側の擁護者たちは “部分的同化"の状態にあった。ハロルド・ラスウェル教授が、フランス革命やロシア革命のような政治的革命が、保守的な反対派によって防衛策として部分的に吸収される過程を指して用いた言葉である。実に興味深い展開だった。パネリスト間の親密さはほとんど見られず、新たな科学的探究領域を探る喜びも出てこなかった。しかし明らかに、それを認めることなく、ヴェリコフスキー批判派は彼の領域で戦わざるを得ない状況に追い込まれていた。科学全体は、このことから利益を得ざるを得ない。なぜなら、アダム・スミスが昔指摘したように、私的な競争は公的な利益をもたらすことがあるからだ。ヴェリコフスキーは新たな製品を設計することで、J・S・ミルの言う"思想の市場 marketplace of ideas“である科学の市場(思想の自由な競争の場)を拡大した。こうして我々は、いわゆる “ハード・サイエンス" が伝説、神話、心理学、考古学、歴史といった “ソフト" な素材に対処しようとする、最初のぎこちない歩みを見ることになる。
科学者はもはや専門家として留まり、変化した状況のこの市場で一瞬以上に対処できると期待することはできない。私は、ヴェリコフスキーが、化学の教授であるアルバート・バーグスターラーへの反論記事のために、化学のいくつかの要点を習得するために、つい最近、数週間にわたって集中的に研究したのを思い出す。したがって、同じことが “ソフト" な科学者たち、すなわちグレイブス、シュリーマン、フロイト、ユング、キャンベル、エリアデスにも当てはまることを付け加えておくべきだろう。彼らは、海洋学、地球物理学、天体力学を扱わなければならない。
また、単に “盲人が盲人を導く" という例えとして、科学者や学者は、学問の構造が成り立つ科学的・人文的哲学的基盤に立ち返るべきだと提案したい。プラトン、ヘーゲル、デューイ、ブリッジマンなどを読み、ガリレオ、ニュートン、マルクス・エンゲルス、ニーチェ、ダーウィン、フロイト、アインシュタインなどの重要な決断力を理解することで、彼らは新たな基盤を整え、新たな構造を築くことができるだろう。科学史と自然史は、心理的・社会的・経験的問題から成り立ち、それらは複雑に絡み合っている。これらは “ハード" でも “ソフト" でもない、柔軟な科学によってのみ接近可能だ。このような広範かつ深遠な学問を習得できる者が少ないならば、そうした学びこそが、誇れる"集団的事業"たる科学の主要な目標ではないのか?
広い視野がヴェリコフスキーの仕事を理解し支持するのに役立つだけではない。広い視野は、それを批判的に検証するためにも必要だ。彼の作風や文体を批判の対象とするつもりはない。彼の著作は力強く断定的だ。大半の社会科学者や人文科学者が好む、礼儀正しく曖昧な表現に溺れることはない。変数を固定できず、データを測定可能に集積できない分野で数学を適切に用いることもできない。彼は仮説を扱っていると認めている ─ 経験科学者でそうではない者がいるだろうか?
つまり、もし誰かが合理的に、そして疑い深くこう問うなら:「反ヴェリコフスキー論として、真に意義ある論考はどこにも存在しないのか?」と。その答えは、残念ながら、依然として “ない" だ。一般論として、また天体物理学や考古学といった専門分野においても同様である。何千もの科学者や学者が彼の研究を非難してきた。彼や彼のチームの一員と対峙した者も数人いるが、彼らは気取って見せびらかし、踊るように動き回り、準備不足で現れ、ボールを無謀に打ち損じ、三振に終わる。結局のところ、彼らは「これは本物のプロの試合ではなかった」と言い放つのだ。
二つの主要な知的プロジェクトがヴェリコフスキーを標的に展開された。前述のコーネル大学出版局の書籍は、前述の『クロノス』特別号によって即座に粉砕された。二つ目の攻撃は、ヴェリコフスキーを間接的に否定するために仕掛けられたもので、彼の名すら挙げていない。それはジョルジオ・デ・サンティラーナとヘルタ・フォン・デヒェンドによる『ハムレットの水車』[9]で、神話と最古の科学的知識に焦点を当てている。その構成は不可解だが、原史時代(文書化された歴史が始まる前の時代)の人類が規律正しく科学的であり得たこと、また神話がどこでも惑星の運動から派生していることを実証する点で有用だ。両著は十分な支持を得た。そして今、資源不足に陥った革命家たちによって食い荒らされている。彼らは敵対者が提示した証拠や批判を糧に生きることにすっかり慣れてしまったのだ。
1977年末、科学史家 A. M. パターソンはこう宣言した[10]:
実際、戦いは終わった。ヴェリコフスキー博士が勝利者となった。彼の科学的仮説 ─ 歴史時代に物理的な惑星大惨事が発生したという主張 ─ が驚異的な予測力を有することが証明されたからだ。ごく一部を例示しよう。木星からの電波ノイズ、木星の強い電荷(1953年); 地球の広大な磁気圏(1956年);太陽系に冥王星まで及ぶ広大な磁場(1946年);太陽は帯電している(1950年);金星は非常に高温で重厚な大気を持ち、自転が乱され異常な回転をしている可能性がある(1950年);火星の大気にはアルゴンとネオンが大量に含まれる(1945年); 火星は月のように傷だらけで地質学的に活動的である(1950年);地球の磁極は何度も反転してきた(1950年);地球の石油の一部はわずか数千年前堆積したものだ(1950年)。
そして月に関する成功した予測:炭化水素、炭化物、炭酸塩が発見される(1969年7月2日及び7月21日);岩石に強大な残留磁気が存在する(1969年5月19日); 放射性物質の局所的分布(1967年3月14日);レゴリス(※月面の表土)中の過剰なアルゴンとネオン(誤った年代推定を引き起こす)(1969年7月23日);地表下の急峻な温度勾配(1969年7月2日)。
おそらくパターソン教授は、自身の最初の文が熱狂的な誇張表現であったと即座に認めるだろう。彼女が論文の別の箇所で指摘しているように、偉大なパラダイムをめぐる対立には300年分の科学が費やされる可能性がある。
さらに我々は、この時代の愚かで狂った政治によって引き起こされる現実の爆発的な戦争の可能性と向き合わねばならない。それは科学の戦争を不可能にするだろう。ヴェリコフスキー博士は核ミサイルの脅威を鋭く認識していた。1974年にカナダ・アルバータ州レスブリッジ大学で名誉哲学博士号を授与された際、人類全体への脅威は初期の大惨事の記憶の抑圧と、権力者たちが無意識のうちに、典型的には神経症的に、恐ろしい古代の光景を再現しようとする衝動に起因すると推測した[11]。
しかしここでは、そのような大惨事は起きないと仮定せねばならない。そうすれば、少なくとも現代世界が過去と異なり問題解決へ急ぐという理由だけで、ヴェリコフスキーの理論の正当性が証明され、それゆえ科学の支配的パラダイムやモデルに大きな転換が、比較的短期間で起こる可能性がある。
革命的視点から進化論的世界観への挑戦は、たとえ最終的にどのような統合がなされようとも、鋭く、明確である。現在、どちらの世界モデルにも同化されていないまま存在する、斉一説による数百もの破局的重要性を帯びた研究がある。彼らは適切な結論を導くことを躊躇しているのだ。したがって、哲学的・思想的障壁が取り除かれ、革命的理論のアーチが整えられた道の上に築かれた時、実証的研究がまさに大群をなして流入するだろう。完新世と初期人類史に関する一つのモデルから別のモデルへの移行期間は、さほど長くはならないかもしれない。
注釈(「第二版 序文」で引用した参考文献)
1. アイザック・アシモフ他『科学者、ヴェリコフスキーに立ち向かう』(ニューヨーク州イサカ:コーネル大学出版、1977年)
2. ヴェリコフスキーと体制科学、第III巻第2号(1977年)。クロノス(グラスボロ州立大学、グラスボロ、ニュージャージー州、アメリカ)と学際研究協会(SISレビュー発行元、T. B. ムーア宛、セントラル図書館、ハートルプール、クリーブランド、イングランド)は、イマニュエル・ヴェリコフスキーを巡る論争に関する情報を継続的に提供している。同時に、彼や関連する学者による、革命的な原始学の本質的な問題に関する論文も発表している。
3. マレン「中心は保たれる」『ヴェリコフスキー再考』(ペンセ編集、アバカス社、1978年)、239-249頁;A. デ・グラツィア「科学と人文科学における来るべき宇宙論的論争」ナフム・レヴェル編『過去から予言へ:ヴェリコフスキーの従来型信念への挑戦』所収(1975年1月10-12日カナダ・ケベック州モントリオール、サイディ・ブロンフマン・センターにて開催シンポジウム論文集)
4. ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡(紀伊國屋書店)』(ボストン:ホートン・ミフリン社、1977年)
5. J. L. ウォーゼル「深海の広範囲にわたる海底反射がホワイトアッシュと特定される」『米国科学アカデミー紀要』43巻349-55頁、1959年3月15日、355頁。ブルース・ヒーゼン、ユーイング、エリクソン「ウォーゼル深海灰の意義」同上、355-61
6. イスラエル・アイザックソン「改訂年代学の適用」『パンセ』IV: 5-20 (1974)
7. 「彗星衝突と地質時代」、『ネイチャー』242:32 (1973年3月2日)
8. 滑稽な一幕として、SF作家であり大衆科学作家でもあるアイザック・アシモフが、事後的に"真面目な"科学者たちの書籍と"非営利"のコーネル大学出版局を紹介するために招かれた。また、ドナルド・モリソン教授の論文も追加されたが、これは以前ヴェリコフスキーの仲間たちとの激しい論争を経て修正されたものだった。参照:R. E. ジョーガンズ「モリソンについて」『クロノス』前掲書、113頁
9. ボストン:ガンビット社、1969年
10.「ヴェリコフスキー vs 学問的遅延(※仮説をめぐる学問の遅れ?)」、『ヴェリコフスキーと体制科学』所収、前掲書、121-131頁、126頁
11. 「文化的健忘症」、アール・ミルトン編『墜ちた空の記憶』(カナダ・レスブリッジ:レスブリッジ大学出版局、1978年)

第一版 序文
アルフレッド・デ・グラツィア 1966年
1950年、イマニュエル・ヴェリコフスキー博士による『衝突する宇宙』という書籍が、科学理論と科学社会学をめぐる論争を科学界と知識人層に巻き起こした。ヴェリコフスキー博士の歴史観と宇宙論は、その認められた学識によって支えられ、天文学、地質学、歴史生物学の確立された理論や、それらの科学の権威者たちに対する強力な挑戦となった。ニュートン、彼自身やダーウィンが挑戦され、秩序ある宇宙という一般的な正統性そのものが問われたのである。ヴェリコフスキーの思想の核心は、本書の第一章で簡潔に提示されている。
いわゆる科学界の権威者たちは、ヴェリコフスキーの新たな理論だけでなく、彼自身に対しても反発した。ヴェリコフスキー博士の思想の普及を阻止し、彼の研究を支持する者たちさえ罰しようとする動きがあった。大学や科学団体、出版社、大衆紙が脅迫され、世論を統制するために社会的圧力や職業上の制裁が用いられた。全体主義社会であれば、ヴェリコフスキー博士の名声だけでなく、研究を続ける権利、ひいては身体の安全さえも脅かされたであろうことは疑いようがない。
実際、"体制側"は彼を取り巻く否定的な感情の壁を築くことに成功した。何千人もの学者にとって、ヴェリコフスキーの名は空想、SF、世間の注目の汚名を背負っている。
しかし彼を完全に隠蔽することはできなかった。その後数年間でさらに3冊の著作を発表し、膨大な書簡のやり取りを続けた。ごく少数の友人たち、そして科学の体制外にいる人々で構成される広範な一般大衆の支援も得ていた。宇宙探査機の調査は、彼の主張を否定することはなく、むしろ裏付ける傾向にあった。結局、論争の毒々しい側面、発行禁止の反対運動、中傷キャンペーンは、科学への影響において、当初の問題とほぼ同等の重要性を帯びるに至った。ヴェリコフスキー博士の研究とその重要性にほとんど無関心で、ほぼ完全に距離を置いていた社会科学者たちが、今やこの論争の渦中に巻き込まれることになったのだ。
ヴェリコフスキーの科学的理論における社会科学・行動科学の関与は、従来認識されていた以上に深かった。社会科学こそが彼の研究の基盤である。自然科学に精通していたにもかかわらず、ヴェリコフスキーが既存の宇宙論への挑戦を提起したのは、社会科学の方法論を用いたからこそだった。この方法が十分だとは誰も主張しない。例えば神話研究と隕石研究を結びつけるには、新たな学際的研究形態が必要だ。また、ヴェリコフスキーが神話学の最高の専門家だとも同意する必要はない。彼の優れた概念化能力と統合力を認めつつも、そう言える。
科学的実体がどうあれ、この論争そのものは行動科学によって回避も否定もできなかった。科学の政治性は、20世紀の激動する問題の一つだ。争点は明快である:科学的真理を決定するのは誰か? その大祭司は誰であり、その権威の根拠は何か? 彼らはどのように規範を確立するのか? それは探究の自由や公共の利益にどのような影響を与えるのか? 結局のところ、科学界の行動に対して何らかの判断を下さねばならず、もし否定的なものであれば、何らかの改善策を提案しなければならない。
こうした観点から、『アメリカ行動科学者』誌は特別号で、ヴェリコフスキー論争に関する三つの論文を掲載した。最初のラルフ・ジョーガンズの論文は、ヴェリコフスキー博士の経歴を初期から現在まで追う。人物像と著作について述べる。二番目のリヴィオ・ステッキーニの論文は、論争の科学的背景を分析する。三番目の編集者自身の論文は、新たな発見を科学体系に組み込む方法を模索し、現行手続きの改革案を提示する。
『アメリカ行動科学者』誌は、ヴェリコフスキー論争に軽率に介入したわけではない。これらの論文は、多くの著名な科学者や学者によって査読された。彼らは当然ながら、著者たちの見解のすべてに同意したわけでも、ヴェリコフスキー博士の主張を必ずしも支持したわけでもない。しかし彼らは、これらの論文を出版することの有用性には同意した。彼らの研究に対する全般的な支援と励ましは、本書が書籍として刊行されるにあたり、改めて感謝の意を表する。感謝すべき方々は以下の通りである:
ハドレー・キャントリル:国際社会研究所理事長、社会問題心理学会元会長
サルバドール・デ・マダリアガ:オックスフォード大学エクセター・カレッジ名誉フェロー
ルーサー・ハリス・エヴァンス:コロンビア大学国際・法律資料館館長、元ユネスコ事務局長
モーゼス・ハダス:コロンビア大学ギリシャ語教授(※ジョン・ジェイにちなんだコロンビア大学の名誉あるギリシャ語教授職)
ロスコー・H・ヒレンコッター:米国海軍退役中将、元中央情報局(CIA)長官
ホレイス・マイアー・カレン:ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ社会哲学研究教授、元宗教科学研究会会長
ハロルド・D・ラスウェル:イェール大学ロースクール法学・政治学教授、元アメリカ政治学会会長
ハロルド・ストロング・レイサム:元マクミラン社編集長兼副社長
フィリップ・ウィッテンバーグ:ウィッテンバーグ・キャリントン・ワインバーガー法律事務所パートナー
論文の公表は即座に反響を呼んだ。自然科学と社会科学の両分野から多数の学者が『アメリカ行動科学者』誌に書簡を寄せ、科学界への問題提起について概ね好意的な評価を示している。今後の議論に役立つことを期待し、全ての文書は保存されている。
本書の新規資料は相当な量に及ぶ。ラルフ・ジョーガンズは新論文でヴェリコフスキー論争の経緯を最新情報まで更新した。リヴィオ・ステッキーニ博士も前回論文に続く新論考を寄稿しており、今回は天文理論における歴史的データの活用を論じている。また『アメリカ行動科学者』特別号掲載のヴェリコフスキー博士自身の論文もここに収録する。
ヴェリコフスキー論争は決して終結していない。終結すべき理由もない。彼への攻撃や妨害に屈することなく、ヴェリコフスキー博士は研究を続け、現在複数の著作が完成間近である。理論の本質を論じた3冊と、自伝的性格の著作だ。彼は今も誠実で精力的な寄稿者であり、その書簡は新たな挑戦を示唆している。
本書にこれらの論文を掲載することで、彼の新たな研究が隠蔽されたり、軽々しく退けられたりすることが難しくなることを我々は願っている。また、これらの論文が世界中の科学者や関心を持つ一般人にとって、科学という巨大な事業の課題を再考し、その誤りを正す一助となることを期待する。

ちょっとした遊びで、記事の内容を書籍の体裁で組んでみました。使ったフォントは私が10数年前に作成したものです。
1. 混沌の中の知性 MINDS IN CHAOS
ラルフ・E・ジョーガンズ
17年前、イマニュエル・ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』の出版はアカデミックな嵐を巻き起こした。著名なアメリカ人科学者たちは、本が出版される前から憤慨し、その出版を驚くべき悪意をもって迎え撃った。その中には、最初の出版社の教科書をボイコットすることで著作を出版禁止にしようとする試みも含まれており、それは部分的に成功した。一般読者は、科学的な議論が学術会議や専門誌という半プライバシー的な場ではなく、大衆紙上で繰り広げられるという特異な光景を目撃した。一方には科学者たちが異例の結束を見せ、他方には言論の自由を擁護する一般市民が立ちはだかった。権威の力が一方に偏った結果、議論は予想通りの結末を迎えた。ヴェリコフスキーとその著作は世間から信用を失ったのである。
この論争は当初から、異端の学者の出版・読まれる権利という単純な問題を超えたものだった。科学界の動揺が生み出した空気には、ニューズウィーク誌が「学術的とは程遠い激しい怒り」と呼んだ特異な感情が充満していた。たとえヴェリコフスキーの著作が、ある天文学者が言うように「既成概念を打ち砕く最も驚くべき事例」であったとしても、その反発の激しさは、大半の批評家が主張するように、その著作が偽物で全く価値がないというなら、その重要性に全く見合わないものだった。多くの非科学者たちは、ヴェリコフスキーの著作はありふれた異端論ではなく、科学そのものの尊厳に対する真の脅威を提示する論文だと結論づけた。『衝突する宇宙』は「新たな根本原理を暴く書物にのみ向けられる」熱狂的な攻撃を受けているように見えた。この熱狂に巻き込まれたヴェリコフスキーの書評を担当した科学者たちは、出版禁止を企てる者たちの公然かつ隠れた行為よりもさらに驚くべき戦術を採用した。
ヴェリコフスキー事件の経緯を追う前に、まずこの奇妙な連鎖の端緒となった著作の不穏なメッセージを思い出すべきだろう。英国では『衝突する宇宙』がほぼ全ての科学者に拒絶されたが、感情的な反応は比較的控えめだった。後に王室天文学長となるサー・ハロルド・スペンサー・ジョーンズは、その主張をこう要約している:
『衝突する宇宙』の中心的主張は、ヴェリコフスキー博士によれば、紀元前15世紀から8世紀にかけて、地球は世界規模の激しい大災害を幾度も経験したというものである。地表の一部は溶けるほど高温になり、巨大な溶岩流が噴出した。海は沸騰し蒸発し…… 山脈は崩れ落ち、別の山脈は隆起した。大陸が隆起して大洪水を引き起こし、熱い石の雨が降り注いだ。激しい電気的異常が大混乱をもたらし、ハリケーンが地球を襲った。暗闇のベールが地球を覆い、その後、火の洪水が押し寄せた。この記録された歴史の期間における激しい動乱の時代の描写は、旧約聖書、ヒンドゥー教のヴェーダ、ローマやギリシャの神話、そして多くの民族や人々の神話、伝承、民間伝承からの豊富な引用によって裏付けられている。
地球史におけるこれらの壊滅的事件は、ヴェリコフスキー博士によって一連の畏敬を催させる宇宙的大変動に起因するとされる。太陽系では、複数の惑星がほぼ円形の軌道で太陽を同じ方向に回り、それらの軌道面はほぼ同一平面上にある。ヴェリコフスキー博士は、これは常にそうであったわけではなく、過去にはそれらの軌道が交差していたと主張する。主要な惑星同士の衝突が起こり、それが彗星の誕生をもたらしたという。彼は、モーセの時代、紀元前15世紀頃、これらの彗星の一つが地球とほぼ衝突し、地球はその尾を二度通過したと述べている。[地球は]彗星の重力による破壊的な影響を経験し、……激しい加熱と巨大な潮汐……絶え間ない放電現象……そして尾部ガスによる大気汚染……ヴェリコフスキー博士は……地中の石油堆積物を、彗星の尾部から放出された炭素・水素ガスの一部が粘性液体(ナフサ)として沈殿した結果と説明する。同様に、イスラエル人が食したマナ(※エジプト脱出後に、荒れ野に住むイスラエルの民に神が与えたとされる食べ物。夜間に霜のように地面に降り注いだとされる)も、同じ源から由来する炭水化物であると解釈される。
この彗星は火星と衝突したとされている…… その結果、尾を失い金星へと変貌したのだ……
さらなる大災害が続いた…… 火星は地球に接近し、紀元前687年には…… 火星が地球とほぼ衝突する事態となった。
これらの様々な遭遇が、地球の軌道、地軸の傾き、そして一日の長さ、季節、年の長さの繰り返される変化の原因となったとされる。ある時、地球は完全に逆転し、太陽が西から昇り東に沈むようになったとされる。ヴェリコフスキー博士は、紀元前15世紀から8世紀にかけて、1年の長さは360日だったが、紀元前687年に突然365日1/4に増加したと主張する。月の軌道とひと月の長さも変化した……[1]
要するに、ヴェリコフスキーは人類の古代記録 ―文書に記された明確な記述から、神話や伝説に表現された記憶、廃れた暦や日時計という無言の考古学的証拠に至るまで ― そして地球全域の地質学的・古生物学的報告の検証を通じて、彼はこう結論づけた。現代人が抱く、天体の調和と知覚できない進化という枠組みに収まった居心地の良い小さな世界は、単なる幻想に過ぎないと。ヴェリコフスキーによる世界史の再評価は、天文学から心理学に至る学問分野の既成概念を破壊する。天体の運動を支配する力は万有引力だけではない。電磁力も重要な役割を果たすに違いない。地質記録に見られる不可解な断絶は、陸塊の周期的な沈降と隆起によって穏やかに終結した、延々と続く緩慢な侵食と堆積の時代を示すのではなく、地球表面の突然の激しい混乱を示す。動物の種や属全体が驚くほど急速に絶滅し、他の属群では同様に驚くべき、ほぼ同時的な種の急増が見られるのは、圧倒的な大災害と生存者における大規模な突然変異を物語っている。進化のメカニズムは、共通の親から生まれた典型的な子孫と偶然の突然変異体の子孫との競争ではなく、慣れない放射線、大気中の化学汚染、地球規模の電磁気的撹乱に同時に曝された個体群全体の分岐的突然変異である。古代の都市や要塞は、局地的な戦争や地震によって個別に滅ぼされたのではなく、世界規模の災害によって同時かつ繰り返し破壊された。過去の記録に明確に記述されている災厄 ─ 後期古典時代の学者から現代の学者まで、ほぼ例外なく寓話的に解釈されてきた記録 ─ は、人類のあらゆる民族にとって共通のトラウマ的体験であり、そのために意識的な記憶から抹消されてきたのである。
(要約終わり)
この奇妙な新しい普遍史概念の提唱者は、1895年にロシアのヴィテプスクで生まれた。正式な教育はモスクワのメドヴェドニコフ・ギムナジウムで始まり、最優秀の成績で卒業した。フランスのモンペリエでの短期留学とパレスチナ旅行を経て、1914年にスコットランドのエディンバラで医学予備課程として自然科学の勉強を始めた。第一次世界大戦の勃発により海外での学業が中断されると、ヴェリコフスキーはモスクワの自由大学に入学し、数年間にわたり法学と古代史を学んだ。その間、1915年にはモスクワ大学で医学学位取得に向けた研究を再開し、1921年に医学の学位を取得した。
その後数年間をベルリンで過ごし、父の資金提供によりハインリヒ・レーヴェ教授と共に『スクリプタ・ウニヴェルシタティス』を創刊・刊行した。この叢書は後にエルサレム大学となる基盤として構想され、各国から集まった傑出したユダヤ人学者たちの寄稿を母国語とヘブライ語訳で掲載した。数学・物理学分野の巻は故アルバート・アインシュタインが編集を担当した。
ベルリンでヴェリコフスキーはハンブルクのヴァイオリニスト、エリシェバ・クレーマーと出会い結婚した。同年後半、若い夫婦はパレスチナに移住し、医師としての診療を開始した。この診療活動 ─ 最初はエルサレムでの一般開業医として、後にヨーロッパで精神医学研修を受けた後はハイファとテルアビブでの精神分析医として ─ が、15年間にわたりヴェリコフスキーの時間のほとんどを占めた。それでも彼は心理学に関する論文を数多く発表し、その一部はフロイトの『イマーゴ』誌に掲載された。オイゲン・ブロイラー教授が序文を寄せた論文[2]において、ヴェリコフスキーは病的な脳波図がてんかんに特徴的であることを初めて示唆した。てんかん患者の歪み・強調された脳波は、後に重要な臨床診断症状であることが判明した。彼はまたエルサレムに科学アカデミーを設立する計画を構想し、新シリーズ『スクリプタ・アカデミカ』を創刊した。このシリーズには世界シオニスト機構会長であり著名な科学者であるハイム・ワイツマン教授が、生化学分野における最初のモノグラフを寄稿した。このシリーズは、1937年12月にパレスチナで亡くなったヴェリコフスキーの父を追悼する目的で捧げられた。
ヴェリコフスキーはまた、ある本の構想を抱いており、必要な研究を完了させるため、診療を中断して長期のアメリカ滞在を決断した。ヴェリコフスキー夫妻と二人の学齢期の娘たちは1939年の夏にニューヨークに到着し、医師は図書館での研究に没頭した。計画されていた書籍は、フロイト自身の著作に記録された夢の分析的研究と、フロイトの思想や著作で重要な役割を果たした三人の人物 ― オイディプス、アクエンアテン、モーゼ ― の生涯の比較研究として構想されていた。
研究は1940年の春までにほぼ完了し、ヴェリコフスキーは帰国準備を始めた。ところが、すでに延期されていた船出の直前、彼はある考えを思いついた。この考えが彼の人生計画を完全に変え、何十年もアメリカに留まることになった。
モーセの生涯における出来事を振り返り、ヴェリコフスキーは推測し始めた。イスラエル人のエジプト脱出の時期に自然災害はあったのか? 聖書に記されたエジプトの災い、ハリケーン、紅海の割れ目、シナイ山の煙と火と轟音は、単一の巨大な自然災害の現実的で連続した側面だったのではないか? もし出エジプトが大変動の最中、あるいはそのために起きたのなら、古代エジプトの多くの文書の中に同じ出来事の記録が残っているかもしれない。もしそうなら、その記録はエジプト史における出エジプトの正しい位置を示す手がかりとならないだろうか?
数週間にわたる調査の末、ヴェリコフスキーは求めていた物語に辿り着いた。1828年以来、オランダ・ライデン大学図書館に保存されていたパピルスに、あるイプウェルの嘆きの言葉が記されていた。1909年に A. H. ガーディナーが翻訳したこの文書は、聖書の記述と酷似する疫病と破壊の記録を明らかにしていたが、その類似性はガーディナーの注意を逃れていた。イプウェルは、自然災害による災厄のさなかで国家と社会秩序が崩壊したことを嘆いた。アジアの侵略者(ヒクソス)への言及から、賢者イプウェルがエジプトの中王国時代(中青銅器時代)の滅亡を目撃したことがうかがえる。
約2000年にわたり、学者たちはエジプト史における出エジプトの適切な位置付けについて推測と議論を重ねてきた。しかし、通常紀元前18世紀とされている中王国の終焉は、ヘブライの年代記によればあまりにも時期が早すぎると考えられ、これまで検討対象とされたことはなかった。あらゆる努力は新王国時代の歴史における妥当な位置付けの発見に向けられてきた。しかしヴェリコフスキーは、自身の相関手法が有効であると確信し、出エジプトとヒクソス侵攻の同時性を仮説として確立し、その後数世紀にわたる調査を進めることを決意した。彼はこの斬新な同時発生説を裏付ける多くの証拠を発見したため、すぐにその内在するジレンマに直面せざるを得なかった。すなわち、ヘブライの歴史が5世紀以上も短すぎるという、考えられない前提か、あるいは現代の歴史学者、考古学者、天文学者が誇りとする共同の成果であり、近東の歴史をすべて校正する基準尺度であるエジプト年代記が、同数の世紀分長すぎるかのいずれかである。後者の選択肢も同様に考えられないことだった。中王国時代以降の歴史、つまりすべての学者によって変更不可能に再構築され、時間内に固定されていると考えられているエジプト史の部分から、余分な数世紀をすべて見つけ出して削除する必要があるからだ。しかしヴェリコフスキーはすぐに、この矛盾の明らかな説明を見出した。特定のエジプト王朝が、従来認められてきた体系では二度登場する。まず、エジプトの遺跡や遺物から組み立てられた物語として現れる。次に、ギリシャの歴史家たちから集められた歴史において、同じ人物や出来事が二次的かつ独立した位置を時間軸上で与えられる。「多くの人物は…… “幽霊" あるいは “半分" や “二重" の存在だ。事件はしばしば重複し、多くの戦いは影であり、多くの演説は反響であり、多くの条約は写しである」
1940年秋、ヴェリコフスキーは古代メキシコの文献に、モーセ五書やヨシュア記に記述された事象と類似する出来事を発見した。これは近東を襲った大災害が地球規模だったという彼の疑念を裏付けるものだった。直ちに彼は研究範囲を拡大し、あらゆる民族の記録を対象とした。その後5,6年をかけて、彼は二つの並行するテーマ ─ 古代政治史の再構築と近世宇宙史 ─ を発展させた。月日が経つにつれ、新たな世界観の詳細が明らかになっていった。その労作から二つの原稿が生まれた。『混沌時代』は紀元前1500年から紀元前300年までの近東史を、『衝突する宇宙』は地球と太陽系における大災害の証拠と時系列を記録したものである。
当時ハーバード大学セム語学科長兼セム博物館館長であった故ロバート・H・ファイファーは、1942年に『混沌時代』の初期草稿を読み、この革命的な歴史解釈が正しい可能性を認めた。彼はこの著作が公正な評価と客観的な検証を受けるべきだと感じた。その後も草稿の改訂版を読み続け、出版社の紹介に尽力した。ある有望な出版社にはこう記している。「この著作は現状でも挑発的であり、その結論が有識者に受け入れられるにせよ、あるいは既存の年代学を根本から再構築させるにせよ、極めて重要である」と。しかしファイファーの支持にもかかわらず、8社の出版社が原稿を返却した。
『衝突する宇宙』の出版社を探す前に、ヴェリコフスキーは自らの仮説を検証する決定的な実験を計画するため、科学者たちの協力を得ようとした。その仮説は本質的に三つの要素から成っていた。(1) 歴史時代に地球規模の災害が発生した;(2) これらの災害は地球外要因によって引き起こされた;(3) 最も最近の災害における要因は金星と火星と特定でき、金星が主導的役割を果たした。これら三つの仮説は、従来の予想に反して金星が (1) 依然として高温であること(これは最近見つかった証拠)、(2) 炭化水素の雲に包まれていること(これは炭化水素を含む彗星の尾の残骸である)、(3) 異常な回転運動を示していること(これは惑星として軌道に落ち着く前に異常な摂動を受けたことを示唆する証拠)が証明されれば、ほぼ立証されることになる。このうち最初の二点は、ヴェリコフスキーが1946年に自身の全研究にとって最も決定的な検証基準として選んだものである。
マリナー2号からの証拠
彼は金星が熱いという自身の結論が最終的に正当化されると確信していた。金星の大気外縁部の温度がマイナス25度であることが知られていたにもかかわらずだ。つい1959年まで、天文学者たちは金星の雲の強い反射力のため、金星の表面温度は地球とほとんど変わらないと考えていた。金星は太陽に近いが、地球より多くの太陽放射を反射している。それでもヴェリコフスキーは、長年指摘されてきた矛盾 ─ 見かけ上はゆっくりと回転しているが、金星の外層の影になっている部分と太陽に照らされた部分の温度はほぼ同じである ─ は惑星が若いゆえの錯覚だと主張した:金星は高温であり、昼夜を問わず両半球から熱を放射している。
[15年後の1961年、電波天文学者たちは金星からの放射が地表温度600°F(約316℃)を示していると発表した。さらに1963年2月、マリナー2号のデータを分析した科学者たちはこの推定温度をさらに200度(約109℃)上方修正した[3]。この証拠を正統派宇宙論と整合させる説得力ある説明は、未だ提示されていない]
ヴェリコフスキーは、金星の大気と外層に炭化水素の塵やガスが存在するという自身の第二の推論が、分光法によって検証可能だと考えた。この目的で1946年4月、彼は当時ハーバード大学天文台長であったハーロー・シャプレー教授に接触した。詳細は省略するが、ヴェリコフスキーは太陽系の秩序における最近の変化に関する仮説を構築しており、金星の分光研究によってその結論の一部が検証可能だと説明した。シャプレーは惑星秩序の急激な変化は重力理論と矛盾すると指摘したものの、別の著名な学者がまずヴェリコフスキーの著作を読み、推薦すれば実験実施を検討すると応じた。ヴェリコフスキーの依頼で、ニュー・スクール・オブ・ソーシャル・リサーチの共同創設者であり当時大学院学部長を務めていたホレイス・マイアー・カレン教授(既にその著作に精通していた学者)がシャプレーに書簡を送り、可能な限り金星の炭化水素探索を実施するよう強く促した。しかし、原稿を読むことを拒否していたシャプレーは、カレンの嘆願に対して、ヴェリコフスキーの「センセーショナルな主張」は力学法則に反するため興味がないと返答した。「ヴェリコフスキー博士が正しいなら、我々は皆、狂っていることになる」と。それにもかかわらず、シャプレーはヴェリコフスキーに、マウント・ウィルソン天文台の所長であるウォルター・S・アダムス、あるいはマコーミック天文台のルーペルト・ヴィルトのいずれかに連絡を取るよう勧めた。
1946年の夏、ヴェリコフスキーはヴィルトとアダムスの両方に同じ問い合わせを行い、「金星は石油ガスと炭化水素の塵が豊富である」ことを示唆する宇宙論的理論を持っていると述べた。この示唆は非常に強力であったため、彼は、金星の大気と外層にこれらの物質が存在するかどうかが、彼の説を決定的に支持または反証する要素になると考えていた。そのため、金星のスペクトルがこの意味で解釈できるかどうかを知りたいと望んだ。ヴィルトは、金星の吸収スペクトルには炭化水素の存在を示す証拠は認められないと返答した。アダムズは、ほとんどの石油分子の吸収帯は遠赤外線領域にあり、写真検出範囲を下回っていること、また検出可能な範囲で吸収することが知られている炭化水素は金星のスペクトルには見られないことを指摘した。
こうした反論にもかかわらず、ヴェリコフスキーは再び歴史的証拠に依拠することを選択した。彼は原稿および後の出版物において、金星の大気圏内に石油類似の炭化水素が存在するか否かを明確に示すことが、自身の研究に対する決定的な検証となるとの主張を残した。
[金星の大気中では約2000℉(約1093℃)の温度で重分子へ凝縮・重合する能力が認められることから、金星の雲は重質炭化水素及びより複雑な有機化合物で構成されているに違いない。これは1963年2月、マリナー2号の実験責任者ルイス・D・カプランが導き出した結論である][4]
1946年7月末、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの科学編集者故ジョン・J・オニールはヴェリコフスキーの原稿を読むことに同意した。オニールは即座に感銘を受け、8月14日のコラムをこの研究に捧げた。彼の意見によれば、「ヴェリコフスキー博士の著作は、地球と人類の歴史の驚異的なパノラマを描き出しており、科学者たちに現実的な宇宙像を構築するよう挑むものとなるだろう」と述べた。
1946年6月から10月にかけて、ヴェリコフスキーは原稿を次々と出版社に提出したが、注釈の多いこのテキストは書籍市場には学術的すぎるとの意見で一致した。しかし結局、道はマクミラン社へとつながった。同社の一般書籍編集者ジェームズ・パットナムがこの本に可能性を見出した。1947年5月に仮契約が結ばれ、その後1年間、オニールや当時ヘイデン天体物理学館の館長でありアメリカ自然史博物館天文学部長だったゴードン・アトウォーターら外部読者が原稿を精査し出版を推奨した結果、最終契約が作成され締結された。
1949年3月までに、マクミラン社が刊行準備中のこの本の噂は業界関係者の間で広まっていた。『ハーパーズ・マガジン』編集長フレデリック・L・アレンは『衝突する宇宙』の二回連載の要約掲載の許可を求め、当時同誌編集者だったエリック・ララビーに校正刷りから暫定的な要約を作成させた。アレンはこの概要を承認を得るために提出したが、ヴェリコフスキーは半年以上も提案に応じなかった。しかし秋になって、さらに強く促された後、彼はララビーと会い、自身のテーマを一本の記事で紹介することについて話し合うことに同意した。その後、ララビーは記事を完全に書き直した。
ララビーの記事『太陽が静止した日』は、1950年1月号のハーパーズに掲載された。この号は数日で完売し、読者からの需要が非常に大きかったため、国内外の多くの日刊紙がララビーの記事全文を転載した。
1950年2月、『リーダーズ・ダイジェスト』誌は、故フルトン・アウスラーがまとめたヴェリコフスキーの研究成果を一般向けに紹介する特集記事を掲載し、その研究成果が旧約聖書の歴史を裏付けるものであることを強調した。
『コリアーズ・マガジン』は1950年2月と3月に、予告されていた三部作のうち二回分を掲載した。ヴェリコフスキーは連載のみに同意しており、改変や要約は承諾していなかった。しかし、彼の承認を得るために提出された原稿がセンセーショナルに脚色され、作品が軽率に扱われていることに激怒した彼は、各記事を大幅に修正しない限り、コリアーズの記事を公に否定すると脅した。長くて激しい議論の末、最初の二つの原稿は承認されたが、コリアーズは三つ目の原稿を断念した。
1950年2月初旬、『衝突する宇宙』が印刷段階に入ろうとしていた頃、パットナムはヴェリコフスキーを訪ね、マクミラン社がハーロー・シャプレーから受け取った二通の手紙を見せた。1月18日付の最初の手紙で、シャプレーはヴェリコフスキーの書籍が出版されないという噂を喜ばしく思うと述べ、マクミラン社が “黒魔術"への進出さえ検討したことに驚きを表明していた。二通目の手紙は1月25日付で、パットナムが最初の書簡に返答し、噂を否定して出版予定通り進めると保証した後のものである。原稿をまだ目にしていなかったシャプレーは「『衝突する宇宙』の出版によってマクミラン社の評判が傷つくかどうか、一年後にあなたから聞くのが楽しみだ」と述べている。少なくとも、この本の出版はシャプレーとマクミラン社の関係を「断ち切る」だろう。彼はまた、自身の依頼により、古典学者でもある同僚の一人がララビーの記事に対する「論評」を準備中だと発表した。彼は最後に、マクミラン社がヴェリコフスキーの経歴を徹底的に調査したことを願うと述べた。しかし「この『衝突する宇宙』の件だけが知的に詐欺的である可能性は十分にある」とも付け加えた。
この第二の手紙は、マクミラン社の社長ジョージ・ブレットの胸に深く響いたようだ。彼は自らシャプレーに返事を書き、「注意を促してくれた」ことに感謝した。ブレットは、この本を三人の公平な検閲官に提出し、三人の多数決の判断に従うことを約束した。
どうやら多数派は再び賛成票を投じたようで、同書は予定通り出版された。土壇場で審査に加わった検閲官の身元は公式には明らかにされなかったが、その一人であるニューヨーク大学物理学部長 C. W. ファン・デル・メルウェ教授は後にジョン・オニールに対し、自身がマクミラン社に招致され、出版を支持した二人のうちの一人だったことを明かしている。
一方、1950年2月25日付の『サイエンス・ニュース・レター』(当時ハーロー・シャプレーが編集長を務めていた)は、5分野の権威によるヴェリコフスキーの思想への非難を掲載した。ネルソン・グリュック(考古学者)、カール・クレーリング(東洋学者)、ヘンリー・フィールド(人類学者)、デイヴィッド・デロ(地質学者)、そして天文学者を代表するシャプレー自身である。この抗議の寄せ集めは、『衝突する宇宙』が印刷所へ送られるまさにそのタイミングで発表された。批判者たちの誰も、その著作を目にしていなかった。
3月14日、シャプレーの同僚である天文学者セシリア・ペイン=ガポーシュキンによるララビーの記事への論評が『ザ・リポーター』に掲載された。(同記事の初期草案は謄写版で複製され、科学者・科学編集者・出版社へ直接郵送で広く配布されていた)。ガポーシュキンはララビー記事の三ページにまたがる三つの文からフレーズを抜き出し、自らの文として引用符で囲み「ヴェリコフスキー博士の天文学的主張」と紹介した。彼女の徹底的に攻撃的な記事の要旨は、電磁気現象は宇宙では重要ではなく、純粋に機械的な太陽系では『衝突する宇宙』の記述は不可能だというものだった。3月25日付『サイエンス・ニュース・レター』は、まだ反論を表明していなかったヴェリコフスキーへの"反論"として、ガポーシュキンの批判を「ヴェリコフスキー博士への詳細な科学的回答」として全科学者に推奨する記事として引用した。
4月11日付『ザ・リポーター』は、ララビーとガポーシュキンの編集者宛ての手紙を掲載した。ララビーは、未読の書籍に対する彼女の批判の妥当性に異議を唱え、ガポーシュキンは自身の書評が普及版プレビュー記事のみに基づいていたことを認めた。彼女はその後(1950年4月3日刊行の)本を読んだと述べ、「文章は改善されていたが…… 誤りは依然として同じだ」と指摘した。
『衝突する宇宙』出版直前数週間、抵抗勢力の指導者たちは戦略的駆け引きに奔走した。当時、シカゴ大学ヤーキス天文台長で米国天文学会元会長の故オットー・ストルーヴェは、ジョン・オニールとゴードン・アトウォーターの両名に書簡を送り、『衝突する宇宙』に関する従来の立場を撤回するよう要請した。アトウォーターは、自分が異端審問にかけられているとは知らず、ヴェリコフスキーの著作には大きな価値があると信じていると返答した。詳細な結論のすべてを受け入れるわけではないが、『ディス・ウィーク』誌向けに同書への好意的な書評を準備中だと述べた。彼はプラネタリウムプログラムを計画しており、実際に『衝突する宇宙』の出来事を描くプログラムを公に発表していた。オニールは激しい反論文を書き上げたが、後に破棄した。彼は、自身の同書に対する以前の評価はその後一切変わっていないことを明らかにした。
アトウォーターのプラネタリウムプログラムは即座に中止された。3月の最終週、彼は博物館における二つの役職 ─ ヘイデン・プラネタリウム館長および天文学部門長 ─ から即時解雇され、直ちに執務室を退去するよう要求された。こうして4月2日に『ディス・ウィーク』誌に掲載された彼の書評 ─ 新理論への対応に開かれた姿勢を求める内容だった ─ には、アトウォーターの名前に付随する肩書きは既に無効となっていた。この表紙記事の掲載を阻止しようとする土壇場の働きかけは、編集者がオニールの助言を求め、それに従ったため失敗に終わった。
反対派が行動を起こす
オニールのヘラルド・トリビューン紙向け書評は4月2日掲載予定だった。だがその日曜号で読者が目にしたのは、オニールではなくストルーヴェによる書評だった。ストルーヴェはこの本の掲載を拒否する理由となる具体的な論拠を一切示さず、「これは科学書ではなく、科学的な言葉で論じることはできない」と述べた。彼は続けてこう記した:「読者が知るには『レポーター』誌の最近の号まで待たねばならなかった。そこでセシリア・ペイン=ガポーシュキン夫人を通じて……金星の観測記録が出エジプトの500年前まで遡ることが判明し、彗星が惑星に変わったという荒唐無稽な説が否定された」と。しかしヴェリコフスキーは、金星が木星から噴出した日付を特定しておらず、出エジプトより前であることだけを述べていた。またヴェリコフスキーが著書で指摘したように、ガポーシュキンが自身の主張の根拠として引用したバビロニアの粘土板(アミザドゥガの金星碑文)は、金星に極めて不規則な運動を記しており、前世紀にニネヴェの遺跡で発見されて以来、翻訳者や注釈者を困惑させ続けてきた。彼はまた、仮に粘土板に記録された金星の出現と周期が第2000年紀初期のものであったとしても(これは学者の間で議論がある)、それは金星が当時すでに不規則な動きをし、惑星らしくなかったことを証明するに過ぎないと指摘した。
ニューヨーク・タイムズ書評欄で『衝突する宇宙』を論評した同紙元科学編集長ヴァルデマール・ケンプフェルトも、4月2日付の記事でガポーシュキンと同様の主張を展開し、ヴェリコフスキーがアミザドゥガの金星粘土板を隠蔽したと誤って非難した。ケンプフェルトは本書を批判する前に十分に読んでいなかったようだ。なぜならヴェリコフスキーは石碑を記述し、21年間のうち5年分の観測記録全文を引用しただけでなく、石碑を研究した様々な東洋学者や天文学者(ローリンソン、スミス、ラングドン、フォザリンガム、スキアパレッリ、クーグラー、ヨハン・ホンメル)の意見を論じていたからである。
その後数ヶ月で「国内の著名な天文学者の驚くべき数が望遠鏡から降りてきて『衝突する宇宙』を非難した」と、1950年9月25日付のハーバード・クリムゾン紙は報じた。全国の新聞は著名な科学者による口汚い書評で埋め尽くされ、より広い範囲に報道されるようにするため、これらの記事の一部は共同配信された。
ヴェリコフスキーの代替説 ─ おそらく地球圏外の星の磁場に支配された結果、「(地球の)軸の傾きが太陽の後退または停止という視覚的効果を生み出す」という説 ─ を無視し、インディアナ大学ゲーテリンク天文台長フランク・K・エドモンドソンはこう記した[5]:「ヴェリコフスキーは、地球が停止した場合、慣性によりヨシュアとその仲間が時速900マイルで宇宙へ飛び去るという初歩的事実を全く気にしていない」。ガポーシュキンが最初に提唱したこの論点は、最も良心的に見ても不誠実である。なぜなら、最も重要な時間的要素 ─ 減速率 ─ が完全に無視されているからだ。
シンシナティ大学天文台長ポール・ハーゲットは『衝突する宇宙』で示された思想を嘲笑したが[6]、科学的根拠に基づく具体的な反論は提示しなかった。それにもかかわらず、彼はこの本の基本的な主張はすべて「力学的に不可能」であると結論づけた。トロント大学デイヴィッド・ダンロップ天文台の所長であるフランク・S・ホッグと、オレゴン州の天文学者 J・ヒュー・プルエットは、出エジプト以前の金星観測がヴェリコフスキーの主張を反証するという、ガポーシュキンとストルーヴェの誤った考えを繰り返した[7,8]。カリフォルニアの物理学者 H. P. ロバートソンは、中傷という安易な道を選んだ。「この信じられない本…… この陳腐な論文…… は、真剣に反論する価値すらないほど滑稽である」[9]。
原子科学者ハリソン・ブラウンは、「事実と結論における誤り」を列挙することを恥としたが、その誤りは「30ページに及ぶ手紙」で書き尽くすほど多いと見積もった。その代わりに、ブラウンは『サタデー・レビュー・オブ・リテラチャー』誌に掲載した『衝突する宇宙』の書評の中で、読者に「現代天文学、地球物理学、地球化学、古生物学、地質学、物理学を総合すると、次のことが言える」と断言した。「地球は3,500年前に自転を停止したわけではない」と。
[ブラウンも、太陽が静止しているように見える現象について、ヴェリコフスキーが提示した別の説明は無視した]
「金星は3,500年前よりはるかに古くに形成された。実際、ヴェリコフスキー博士が示唆する年代より約100万倍古い可能性が高い」
「金星は木星から発生した彗星(あるいは他の何ものから発生した彗星であれ)から形成されたのではない」
ブラウンの書評の残りの部分は “書籍・雑誌出版の無責任さ" に割かれていた。
著者を貶めようとする長期にわたる激しいキャンペーンにもかかわらず、『衝突する宇宙』は多くの科学ライターや書評家から熱狂的に歓迎され、1950年にはニューヨーク・タイムズとニューヨーク・ヘラルド・トリビューンのベストセラーリストで20週連続で首位を獲得した。
[しかし奇妙な見落としとして、1950年版『ブリタニカ百科事典 年間ベストセラー』は、その年のベストセラーを総括する中でヴェリコフスキーの著書の存在に言及しなかった]
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1950年5月25日、書籍の売上がピークに達した頃、ヴェリコフスキーはブレット(マクミラン社の社長)の事務所に呼び出された。そこで彼は、特定の大規模大学の教授陣がマクミラン社の営業担当者と面会を拒否していること、また多数の科学者から出版中止を求める書簡が届いていることを告げられた。ブレットは、教科書部門を持たないダブルデイ社との間で暫定的に調整された取り決めを承認し、自ら破滅から救われるようヴェリコフスキーに懇願した。ダブルデイ社は、ヴェリコフスキーの同意を得て『衝突する宇宙』の全権利を引き継ぐことになった。圧力がかけられている証拠として、ブレットはミシガン州の天文学者ディーン・B・マクラフリンからの手紙をヴェリコフスキーに見せた。マクラフリンは、ヴェリコフスキーの本は嘘ばかりだと主張していた。同じページで、マクラフリンは本を読んでおらず、今後も読むつもりはないと断言していた。
ヴェリコフスキーが次の手を考える間 ― 権利をダブルデイ社に移すことを承認するか、それとも新たな出版社を独自に探すか ― 彼の批判者である科学者たちは、どうやら問題をより深刻な視点で捉え始めたようだ。『衝突する宇宙』の出来事を、多様な情報源から得た事実として否定できない状況は、彼の方法論と情報源に対する本格的な攻撃が必要であることを示唆していた。
1950年6月号の『ポピュラー・アストロノミー』誌は、セシリア・ペイン=ガポーシュキンによるヴェリコフスキーへの新たな攻撃を掲載した。彼女の論評の前には、編集者による数行の説明が添えられていた。「本書は通常の書評よりも大きな紙面を割いて『衝突する宇宙』を分析している。理由は二つある。1. この本は複数の大衆誌で好意的に言及されたことで、多くの読者の注目を集めている。2. 本書が最も密接に関わり、あるいは最も鋭く対立する科学分野である天文学において、本稿の分析は認められた権威によるものである」
ガポーシュキンの"分析"は二部構成で、第一部は「文献的出典」に割かれた。文脈資料と裏付け資料を意図的に無視するという単純な手口で、彼女はヴェリコフスキーが出典を歪曲したと示そうとした。彼女の"科学的論証"には、実証不可能なドグマの言い直しや、ヴェリコフスキーの主張に対する極めて皮肉な要約が含まれていた。
ブラウン大学のオットー・ノイゲバウアー教授(バビロニア・ギリシャ天文学の専門家)は、広く再版配布された『イシス』誌[11]の記事で、ヴェリコフスキーが引用資料を意図的に改変したと非難した。この主張を裏付けるため、ノイゲバウアーは別の学者の著作からの引用において、ヴェリコフスキーが正しい値である 3°14′ を 33°14′ に置き換えたと具体的に指摘した。ヴェリコフスキーが当時『アイシス』誌編集長だった故ジョージ・サートン宛ての手紙で抗議し、自身の著書に記載された数値は正しく、33°14′ という数値は実際にはノイゲバウアー自身の挿入であり自分によるものではないと主張した際、ノイゲバウアーはこの件を「問題にならない単純な誤植」として退け、自身のヴェリコフスキーの手法に対する評価を無効にするものではないと述べた。そして、その誤りが指摘されてからずっと後になっても、関心を持つグループによって再版は流通し続けた。
ノイゲバウアーの基本的な立場は、紀元前7世紀以前の膨大なバビロニア天文学文献は、いずれも我々が知る天体の運動と矛盾しており、実際の観測を完全に無視して作成されたというものである。一方、ヴェリコフスキーは、これらの記録が最後の大災害以前の天体の真実の観測を表していると考えている。
イェール大学の教授4名が共同で、地質学者チェスター・R・ロングウェルが編集する『アメリカン・ジャーナル・オブ・サイエンス』誌[12]にヴェリコフスキーへの反論を寄稿した。中国学者の K. S. ラトゥレットは、ヴェリコフスキーが「自身の説を裏付ける証拠を求めて驚くべき範囲の歴史的記録を精査した」ことを認めたが、その説を反駁する具体的な論拠は見出せなかったようだ。メキシコ研究者のジョージ・キューブラーは、『衝突する宇宙』で提唱された「メソアメリカ文明は当時の学説が認めるよりはるかに古い」という主張を嘲笑した。「ヴェリコフスキーが繰り返し証拠として引用するメソアメリカの宇宙観は、紀元前後の時期に初めて出現したものである」。
[1956年12月、ナショナル・ジオグラフィック協会は「原子科学により、メキシコの古代文明は従来考えられていたより約1000年古いことが証明された」と発表した]
ルーペルト・ヴィルトは、電磁力のみを除外し、重力と慣性のみに基づく天体力学の妥当性を疑ったヴェリコフスキーを厳しく非難した。ロングウェルは、石油が宇宙起源であるかもしれないという考えを突っぱねた。
[カリフォルニア大学の化学者 W. F. リビー教授は、月にも石油が存在する可能性を示唆している。ニュージーランドのウェリントンにあるビクトリア大学の A. T. ウィルソン教授は、1960 年に、メタンとアンモニア(木星のような)の大気中で放電によって高分子量炭化水素を生成した。1962年には、地球の石油は宇宙起源である可能性があり、月にも石油が存在する可能性があると示唆した]
4人のイェール大学教授が承認しロングウェルが署名した記事は、1950年6月25日付ニューヘイブン・レジスター紙で先行掲載された。本文上部の青インクで書かれた7段見出しにはこう宣言されていた:「イェール大学の4人の学者、ノンフィクションベストセラーを"暴く"」
ダブルデイ社から教科書執筆者や購入者からの圧力に無関係との保証を受けた後、ヴェリコフスキーは1950年6月8日に権利譲渡を承認した。6月11日にはコラムニストのレナード・ライオンズがこのニュースを報じ、6月18日のニューヨーク・タイムズ紙はこう記した。「出版街に近年で最大の爆弾が投下された。先日、爆発した…… ヴェリコフスキー博士自身はこの権利移譲についてコメントしなかった。しかし出版関係者は非公式に、教育関係者らからの抗議の嵐が同社の弱点である教科書部門を直撃したと認めた。取締役会での激しい議論を経て、マクミラン社はやむなく屈服し、自社のリストで最大の稼ぎ頭を権利放棄した」
レナード・ライオンズは、この発行禁止がハーロー・シャプレーによって仕組まれたと報じた。しかしシャプレーはニューズウィーク誌の取材に対し「脅迫など一切していないし、そうした人物も知らない」と述べた。故ジョージ・ソコルスキーも自身のコラムでこの件を取り上げ、間もなくポール・ハーゲットから手紙を受け取った。ハーゲットは功績が全てシャプレーに帰されることに不満を抱いていたようだ。ハーゲットが書き、ソコルスキーが引用した。「私はマクミラン社に対するこの運動に参加した一人だ…… シャプレーが何らかの形で主導者だったとは考えていない…… 私自身も非常に積極的に参加した……」。ディーン・マクラフリンはフルトン・アウスラーにこう書いている。「『衝突する宇宙』はつい先ごろ所有者が変わった…… 率直に言って、この変更は科学者や学者たちがマクミラン社に圧力をかけた結果だ……」
6月30日、シャプレーの後任としてハーバード大学天文台長に就任したフレッド・ウィップルは、当時ダブルデイ社が所有していたブラキストン社に対し、ヴェリコフスキーと同社で同僚の著者として活動を続けるよりは、ブラキストン社から出版された『地球、月、惑星』の今後の印税を慈善団体に寄付すると通告した。さらにダブルデイ社がブラキストン社を支配する限り、同書の改訂版作成には一切関与しないと表明した。
しかし、問題のベストセラーを処分することは、マクミラン社の評判回復に向けた第一歩に過ぎなかった。煉獄の犠牲(※罪の償いを目的とした一時的な苦しみや試練を受ける状態)と公の撤回という課題が残されていた。
マクミラン社で25年のベテランであるジェームズ・パットナムは、ヴェリコフスキーの原稿の契約と出版の手配を任されていた。彼がマクミラン社に『衝突する宇宙』の受け入れを強く勧めた判断は、同書がベストセラーとなったことで見事に裏付けられた。それにもかかわらず、出版権をダブルデイ社に移す交渉は彼の知らないところで行われ、移管が完了するとすぐに、パットナムの親友である編集長 H. S. レイサムが派遣され、彼の職務が即時終了すると通告した。
[1963年1月、レイサムはヴェリコフスキー宛ての手紙で、マクミラン社の屈服について今も深く後悔していると表明している]
1950年12月にクリーブランドで開催された米国科学振興協会の年次総会で、マクミラン社代表のチャールズ・スケリー氏が、出版前に新理論を評価する方法を検討する特別委員会のメンバーに向けて演説した。彼は、科学の進歩への貢献として、自社が「委員会が不適切と判断した書籍の権利を自発的に譲渡した」と指摘した…… この発言は委員会委員長ウォーレン・ガスリーによって正式に記録・報告された[13]。ハーバード大学の地質学者カートリー・マザーは、検閲の可能性について議論する委員会における主要な発言者だった。
『衝突する宇宙』の英国版は、ダブルデイ社とヴィクター・ゴランツ社の契約からわずか2か月で急いで印刷され、9月には英国の科学者たちが書評を発表し始めた。本記述の冒頭で一部引用したスペンサー・ジョーンズはこう結論づけた。「これほど多くの学識が、これほど誤った道筋を追うために浪費されたのは残念だ」。しかし彼は、もしヴェリコフスキーが記述したような大災害があったなら「過去の特定の時代に火星と金星の位置が同一であったことが判明するはずだ」と主張した点で誤っていた。ヴェリコフスキーは1950年10月27日付『スペクテイター』誌に掲載された書簡で、王立天文官の誤りを指摘した。最後の大災害は火星と金星の間ではなく、火星と地球の間で起きたのだと。彼はまた、現在15年ごとに地球と火星が接近していること、両惑星の軸の傾きの類似性、そして両惑星の1日の長さの類似性を、過去の接近と磁気干渉の痕跡として指摘した。
進化論者 J. B. S. ホールデン(『科学と倫理』の著者)は、1950年11月11日付『ニュー・ステーツマン・アンド・ネイション』誌で本書を批評した。ホールデンはヴェリコフスキーの発言を誤って引用し、その誤りを嘲笑した。彼は年代とヴェリコフスキーが関連付けた出来事を混同し、本書は「科学と宗教の双方に対する不名誉である」と結論づけた。
ハーパーズ誌掲載記事
1950年の秋、フレデリック・アレンは『ハーパーズ・マガジン』誌上でヴェリコフスキーとの論争に参加する科学者を求めた。シャプレーやノイゲバウアーらはこの機会を断ったが、プリンストン大学の天体物理学者ジョン・Q・スチュワートは引き受けた。この論争は1951年6月号のハーパーズ誌に掲載された。編集部が用意した数段落の背景説明文が前置きとして添えられており、そこでは「この本に対する、注意深い読解に基づく明確な批判は驚くほど不足している」と指摘されていた。
最初に発言権を得たヴェリコフスキーは「批判者への回答」を提示した。彼は自らの著書に対して提起された主要な物理的・歴史的論拠の誤りを一つずつ説明し分析した。その論点には古代の日食、金星の初期観測、彗星の物質、太陽系における電磁力とその影響、地球の自転停止や軸の傾斜が宇宙空間で引き起こす結果などが含まれていた。
スチュワートの論文は『衝突する学問』と題されていた。彼はガポーシュキンの先行論文に大きく依拠し、ヴェリコフスキーのテーマを要約した彼女の文章を全文引用した。その文章は括弧付きの嘲笑に満ちていた。スチュワートは、古代の日食記録がヴェリコフスキーの主張 ─ 紀元前2000年紀および1000年紀における地球と月の運動変化 ─ と矛盾すると非難した。しかしヴェリコフスキーは、同じ号のハーパーズ誌に掲載された反論で、問題の日食が原典において日付も場所の特定も伴っていないことを示した。さらに、言及された三つの記録のうち、一つ(中国)の本文は、予測された日食の発生を妨げた天体の動きの乱れについて言及しており、二つ目(バビロニア)に関するクーグラー(バビロニア天文学の最高権威)の解説は、月の特定の日に日食が全く起こり得ないという事実に注目を促している。クーグラーは、報告された現象は地球が塵や隕石の “巨大な列" を通過したために空が暗くなった可能性があると推測した。
[1959年、パリ天文台長アンドレ・ダンジョン教授は、太陽フレア発生後に地球の自転速度が急変することを実証した。彼はこれを電磁気的影響によるものと説明している。この発見が示す一つの帰結は、日食の日付を事後計算で特定することは不可能だということである]
スチュワートはまた、地球の軸の地理的位置は決して変化しないと主張した。しかし1951年の論争以降、地殻に対する軸の移動という考え方は科学界で受け入れられるようになった。
スチュワートによれば「紀元前4000年紀に遡る墓は、カルデアのウルにおいて海洋洪水によって破壊されなかった」という。しかしヴェリコフスキーは反論の中で、ウル発掘者レナード・ウーリー卿の言葉を引用した。
「8フィートの堆積層は極めて深い水深を示しており、これを堆積させた洪水は地域史上類を見ない規模であったに違いない…… 洪水以前に存在した文明全体が、その上層から消失しており、水没したように見える」
1951年8月号の『ハーパーズ』誌には、ディラード大学の物理学・数学教授ジュリアス・S・ミラーによる投書が掲載された。ミラーはヴェリコフスキー批判者たちの「明白な批判の著しい不足と貧弱さ」を指摘し、次のように結論づけた:「(1) ヴェリコフスキーの主張は全くの非現実ではない」および「(2) ……未だ反証されていない」
フロリダ州立大学哲学准教授だったローレンス・ラフルールは、1951年11月号の『サイエンティフィック・マンスリー』誌でヴェリコフスキーに対する新たな論拠を提示した。
「……革命的な学説を提唱する者は、科学者というよりむしろ変人であるという仮定の方が確率的に有利だ」と。ラフルールは変人を見抜くための七つの基準を列挙した。
例:
テスト6. ヴェリコフスキーの理論は、数学的正確性を示す事例が一つもない。仮に予測が可能だとしても、その予測は科学的に検証不可能なほど曖昧であるに違いない.
テスト7. ヴェリコフスキーは少数派の見解を受け入れる傾向を示し、現行の見解に反対する個人の意見を引用する。さらに、その見解が信用を失い、もはや少数派の見解としてさえ支持されなくなった場合でさえ、それを引用する。例えば、地球の軸が大きく変化したという説を挙げることができる。
ラフルールは結論として、ヴェリコフスキーがこれらのテストの「おそらく全て」において変人としての条件を満たすと断じた。しかしこれを立証した上で「我々はなお感情と向き合わねばならない。第一に、科学者たちはヴェリコフスキーの立場を反駁しようとする試みをすべきだったという感情だ。それは彼自身と公衆への奉仕として……」 こうして教授は、それまでの批判の多く―1年半以上にわたり印刷された何千もの言葉 ― が反駁ではなく非難に過ぎなかったことを認めた。しかし、ラフルールは自分が推奨した「貢献」を試みた際、その場限りの天体物理学定理を駆使しても、科学者たちと同程度の成果しか上げられなかった。彼は、地球が電荷を帯びているという事実を否定した。その根拠は「静電計がそれを検出するはずがない」というものだった。
(『衝突する宇宙』論争の全期間を通じて、いかなる批判者による誤った主張も、いかなる科学者も印刷物で訂正しなかった)。
さらにラフルールは、二つの天体が互いの磁場が衝突するほど接近した場合、必然的に衝突・蒸発・融合が起こると主張した。
1952年4月、フィラデルフィアでアメリカ哲学協会が開催され、「現代科学の非正統性」と題したシンポジウムの一環として、セシリア・ペイン=ガポーシュキンによる論文『衝突する宇宙(※ヴェリコフスキーの著作と同名。ガポーシュキンによる"Worlds in Collision")』が発表された。ガポーシュキン夫人は再び、自身の先行論考の大半を繰り返した。その冒頭で、彼女は『衝突する宇宙』に潜むとされる誤謬を暴くための「ヘラクレス的労苦(骨の折れる作業)」について述べた。彼女はヴェリコフスキーの膨大な証拠の大半を無視し、特定の引用を文脈から切り離すことで、あたかもヴェリコフスキーが自らの考えをそこに読み込んだかのように見せかけた(原文比較は付録2参照)。聴衆は、ヴェリコフスキーが学術的規範に対する最も悪質な無視の罪を犯したと結論づけるしかなかった。ガポーシュキンの演説(欠席中の代読)終盤で、彼女は困惑を表明した:「もし科学者たちが自認するほど寛容な人間であるなら、なぜ “科学は聖なる牛※" といった類の批判にこれほど晒されるのか? 科学への反発がなぜこのような形をとるのか、私には理解できないと告白せざるを得ない……」
※「Science is a Sacred Cow」は「科学は神聖視されすぎていて、批判や疑問を許されない存在になっている」という意味。「sacred cow(聖なる牛)」は、もともとヒンドゥー教文化で牛が神聖な存在とされていることから来た慣用句で「批判や変更が許されない思想や制度」を指す。この言葉は、1950年に化学者アンソニー・スタンデンが書いた本のタイトルでもある。彼はその中で、科学者たちが「過剰に尊敬され、時に傲慢になっている」と批判していて、科学がまるで絶対的な権威のように扱われていることに警鐘を鳴らしていた。
ヴェリコフスキーは同じ集会の聴衆席にいた。彼は考古学者、天文学者、地質学者らが先に提示した主張に対して反論を述べるため、前に出ることを許可された。聴衆は熱心に耳を傾け、温かい反応を示した。しかし彼が、学会誌『アメリカ哲学会紀要 Proceedings』[14]にガポーシュキンの論文と共に自身の発言を掲載するよう要請した際、その申し出は却下された。ところがガポーシュキンの論文には、同じくハーバード天文台のドナルド・H・メンゼルによる『ヴェリコフスキーの荒唐無稽な仮説に対する定量的反駁』が添付されていた。
「……ヴェリコフスキーの仮定に従い、太陽と惑星が突然巨大な電荷を獲得した場合の現象を検証しよう」。
メンゼルの計算によれば、等しい電荷を持つが極性が逆の地球と太陽の重力引力の10%を電力が占めるには、各天体が1019ボルト(10の19乗)の電圧を獲得する必要がある。太陽にこの電荷を付与するのに必要なエネルギーは5✕1043エルグ(10の43乗)であり、「太陽が1000年間に放射するエネルギーの総量に相当する」と述べた。メンゼルはさらに、陽極の太陽が保持できる最大電荷は1800ボルトだと示そうとした。さて、メンゼルが計算によって嘲笑しようとした「突然獲得された電荷」という設定は、完全に恣意的で誤解を招くものである。ヴェリコフスキーの説には、太陽や惑星の電荷が突然獲得されることを示唆するものは何もない。さらに、メンゼルが太陽、地球、宇宙空間の誘電特性について必要とした仮定は、完全に根拠がなく、観測的証拠によって裏付けられていない。
(1960年以降の宇宙探査により、特に太陽に近い惑星間空間がプラズマで満たされていることは確立されている。したがってメンゼルの仮定は状況に適用できない。さらに1960年、オーストラリア・シドニー大学の V. A. ベイリー教授は報告した[15]:「五つの異なる天文現象の既知の桁違いの規模は…… 太陽のような恒星が正味の負電荷を帯びているという単一の仮説によって説明可能であることが判明した……」。ベイリーは、必要な太陽の電荷が表面電位1019ボルト級の電界を生成すると計算した)
ウィルソン山天文台およびパロマー天文台の所長であるウォルター・S・アダムスは『衝突する宇宙』に関する議論に参加した天文学者たちの中で、稀有な例外だった。ヴェリコフスキーとの書簡のやり取りの中で、アダムスは、天体力学に電磁気学が関与しているという前提は受け入れられないものの、天文学的資料の正確な提示についてヴェリコフスキーを称賛した。ヴェリコフスキーが天文学的現象に関する情報や説明を求めると、アダムスは礼儀正しく、細部に至るまで丁寧に回答した。1952年2月、『衝突する宇宙』の著者は、パサデナの太陽観測所にいるカリフォルニアの天文学者を訪ね、歴史的証拠によって提起されたいくつかの問題について直接話し合った。
建設的な批判は、コロンビア大学の天文学者ロイド・モッツ教授からも寄せられた。モッツは従来の見解を支持しているが、ヴェリコフスキーは彼と天体力学の問題について度々議論を交わした。
キエフ天文台の所長 S. K. フセフスヴィアツキーは、太陽系現象に関する問題についてヴェリコフスキーと文通を交わし、理論的問題における自身の立場を擁護するために、数多くの機会にヴェリコフスキーの著作を引用している。
ヴェリコフスキーの『混沌時代』第1巻は1952年3月に刊行された。出エジプト記に記述された大混乱を中王国末期のエジプト大災害と同一視することで、エジプト史とイスラエル史を同期させ得るという前提から出発し、著者は第15王朝から第9王朝中期までの数世紀にわたり、エジプトとパレスチナという二つの土地の民々の接触を浮き彫りにした。この同期化はエジプト第18王朝末期、アクエンアテン統治時代までほぼ及ぶ。これによりアクエンアテンは正統派年代学におけるモーセの先駆者ではなく、第9世紀のエイハブ王やヨシャファト王の同時代人として位置づけられる。『混沌時代』の未発表部分では、従来のエジプト史に見られる6世紀分の明らかに余剰な期間を処理する必要がある。ヴェリコフスキーは、その過程で自身の研究が、エーゲ海、メソポタミア、アナトリアの歴史に、謎めいた半世紀にわたる"暗黒時代"を挿入する必要が全くないことを示すと断言している。

ジョンズ・ホプキンズ大学のセム語学教授、ウィリアム・F・オルブライトは、1952年4月20日付のニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙で、ヴェリコフスキーの2冊目の著書を批評し、これを否定した。オルブライトの唯一の具体的な反論は、ヴェリコフスキーが、エル・アマルナ文書の一部に登場する楔形文字の複数形記号 “メッシュ" を、モアブ王メシュ(a) の名前と誤認したというものだった。しかし、ヴェリコフスキーは、これらの手紙のいくつかの箇所で、文法構造が明らかに個人、すなわち聖書でよく知られているサマリア(スミュル)の王の反抗的な家臣に関連しているため、従来の解釈は適用できないという事実に、彼の文章の中で2回注意を喚起している。
ヘブライ・ユニオン・カレッジのハリー・オルリンスキー教授はオルブライトの指摘を繰り返し[16]、自らが論評すると称した書籍の内容を全く理解していないことを露呈した。
学術誌はヴェリコフスキーの歴史再構築論の分析に紙面を割かなかったが、オルブライトが8年後にヘラルド・トリビューン紙で述べたように[17]、歴史学界には “苦悩の叫び" が渦巻いていた。
ヴェリコフスキー夫妻は1952年にニューヨーク市からニュージャージー州プリンストンへ移り住み、この異端者は同大学の科学者たちと交流を深め始めた。1953年10月、彼はプリンストン大学院フォーラムで『考古学・地質学・天文学における最近の発見に照らした衝突する宇宙』と題する講演を依頼された。この講演の中で、彼は『衝突する宇宙』の出版以降に発見された多くの事柄を引用して自らの説を裏付け、地球の磁場は月まで届き、月の説明のつかない揺れや揺動の原因となっていると示唆した。また、木星は電波周波数の範囲で放射しているとも示唆した。
(1955年4月、カーネギー研究所の B. F. バーク博士と K. L. フランクリン博士は、アメリカ天文学会での会議で、木星から電波ノイズが放出されていることを偶然発見したと発表し、聴衆を驚かせた。しかし、ダブルデイ社の編集者が、ヴェリコフスキーがまさにそのような発見を予見していたという事実に注意を喚起する手紙を送ったところ、そのうちの一人は、ヴェリコフスキーでさえ、たまには “ニアミス" を許されるだろうと返答した)
フォーラムでの講演のテキストは、1955年にヴェリコフスキーの『激変の地球』の補遺として出版された。
1953年のフォーラム講演の頃から1954年を経て、1955年、アインシュタインが亡くなるまで、彼とヴェリコフスキーは衝突する惑星と電磁気的太陽系の利点について、口頭及び書面で私的な議論を続けた。アインシュタインは太陽と惑星は電気的に中性で、宇宙空間には磁場やプラズマが存在しないという確信を頑なに貫いた。しかし死の数日前に、ヴェリコフスキーが長年主張してきた通り木星が電波ノイズを放出している事実を知ると、彼はヴェリコフスキーが提案した別の実験を手配するため影響力を行使すると申し出た。が、時すでに遅しだった。アインシュタインが亡くなった時、『衝突する宇宙』は机の上に開かれたまま置かれていた。
1952年にガポーシュキンがヴェリコフスキーを批判した論文が発表されたのと同じフィラデルフィアのシンポジウムで、ハーバード大学の科学史家 I・バーナード・コーエンも講演した。会議前に公開された講演要旨でコーエンは、ヴェリコフスキーへの反発こそが彼の研究の重要性を示しているのではないかという予感を表明した。ヴェリコフスキーとその著作が議論の中心となるようだった。しかし、実際に講演を行う頃には、コーエンの論旨は大きく変更されていた。会議録[18]に掲載された講演の印刷版では、ヴェリコフスキーへの言及はわずか一度、ガポーシュキンが既に彼を信用失墜させたという、何気ない結論の中でなされただけだった。
1955年7月、『サイエンティフィック・アメリカン』誌はコーエンによるアルバート・アインシュタインへの追悼文を掲載した。コーエンがアインシュタインと直接会ったのは、インタビューのためのたった一度きりだった。コーエンはこの機会を利用して、アインシュタインの言葉から切り離された形容詞を引用したと称して、ヴェリコフスキーを嘲笑した。1955年9月号の『サイエンティフィック・アメリカン』誌で、アインシュタインの遺産執行人であるオットー・ネイサンとの書簡のやりとりが掲載され、コーエンは次のように認めている。アインシュタインはヴェリコフスキーの理論が受けた反応を、ヨハン・ケプラーが受けた扱いになぞらえ、同時代の人々は天才と狂人を見分けるのが難しいことがあると述べていた。コーエンは最後にこう述べている。「……アインシュタイン教授が、問題の著者(ヴェリコフスキー)に対して友好的な感情を抱いていた可能性を否定する根拠はないし、彼の仕事にある程度の関心を持っていた可能性も否定できない。アインシュタイン教授は、その著者が攻撃されたときに同情を示し、一部の攻撃者たちが用いた手法を好ましく思っていなかった」
激変の地球 ‘EARTH IN UPHEAVAL’

同時期にヴェリコフスキー自身は『激変の地球』の原稿を完成させていた。この本は地球上で最近起きた大災害の証拠を提示するものである。アインシュタインは原稿の一部を読み、余白に注釈を添えて助言を寄せた。秘書ヘレン・デュカスによれば、彼は死の直前、メトロポリタン美術館エジプト学部門の学芸員に対し『混沌時代』の説を検証する炭素14年代測定の実施を依頼する書簡を執筆する予定だったという。この要請が伝えられ、ヴェリコフスキーが10年以上にわたり大英博物館や他の機関に働きかけたにもかかわらず、従来の年代学で1200年以上をカバーするエジプトの新王国時代と後期は、概して検査プログラムから除外されてきた。しかし、この時代の遺物が予想外に低い年代を示したため “汚染されている" と判断された事例が複数存在する。
『激変の地球』は1955年11月に刊行された。ヴェリコフスキーは、ライエルの一様性(斉一説)という百年にわたる原理を検証した。その教義を、地球のあらゆる地域から発見された異常な遺物と比較した:アラスカの凍土には、無数の引き裂かれ砕かれた動物や樹木がほぼ全体に埋もれている;北極海の島々には、マンモス、サイ、馬の未化石化した骨が土壌にぎっしりと詰まっている;氷河に覆われなかった極地と、氷河に覆われた熱帯地域。極地付近の珊瑚と石炭の堆積物;ツンドラ、草原、熱帯雨林の動物の骨が混ざり合い、共通の穴に埋められている;世界の主要な山脈の驚くべき若さ;移動した極点;逆転した磁極;世界中の海面水位が突然変化したこと;陸地と海底の裂け目。
その後、ヴェリコフスキーは進化論の問題を取り上げ、ダーウィンがライエルの一様性(均一性)を支持して天変地異説を退けたのは、当時の激変説論者たちが地球の古さを認めなかったからだと主張した。しかし実際には、突然変異による進化現象を説明できる唯一の妥当なメカニズムは、大災害説が示唆するものだ。したがって、ギリシャ時代から続く進化論に対するダーウィンの貢献は、競争が新種を生み出すという、未だ実証されていない仮説に過ぎなかった。『種の起源』出版後の論争では、進化が自然現象であるか否かが焦点となり、それは当然ながら肯定的に解決された。しかし騒動の中で見落とされたのは、ダーウィンの仮説の不十分さだとヴェリコフスキーは主張した。「もし自然淘汰が…… 種の起源のメカニズムでないなら、ダーウィンの貢献はごくわずかなもの ─ 不適者淘汰における自然淘汰の役割に過ぎなくなる」。ヴェリコフスキーは『激変の地球』において、進化は大災害的プロセスであると提唱した。「……種の起源を引き起こし得る原理は自然界に存在する。皮肉なことに、ダーウィンは自らの理論の最大の敵を天変地異説に見出していたのだ……」
当初、科学雑誌や書評家たちは『衝突する宇宙』に対する自らの批判が逆効果だったことを認識し、『激変の地球』を無視する選択をしたようだ。しかし刊行数か月後、ニューヨークのラジオ局が「対話番組」を放送した。司会をクリフトン・ファディマンが務め、コロンビア大学大学院学部長に新たに就任したジャック・バルザンと、ラジオ技術者協会会長でありラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ 研究担当副社長のアルフレッド・ゴールドスミスが本書について議論した。三人の参加者はいずれも、ヴェリコフスキーの方法論、学識、そして証拠を提示する説得力ある手法に対して熱意と肯定的な評価を示した。彼らはこの著作が科学と歴史における重要な新概念への第一歩となり得ると考えた。また全員が、この著作は科学者による客観的な検討に値すると合意した。
この『激変の地球』に対する好意的な議論が、他の科学メディアでも議論するよう圧力をかけたのかもしれない。1956年3月、『サイエンティフィック・アメリカン』誌はハリソン・ブラウンによる書評を掲載した。しかし彼の言葉は、『衝突する宇宙』を封殺した科学者たちの不適切な行動への弁明と、同書に対する自身の従来の立場の再確認に費やされていた。7段組の記事の中で、ブラウンは『激変の地球』を一点も論破することなく退けた。新刊はたった一段落で扱い、その後は古い論争に戻ったのである。だが彼は、30ページに及ぶと主張していた『衝突する宇宙』への反論を、今回も一切提示しなかった。
[1963年、ブラウンはヴェリコフスキーのカナダ人読者への書簡で、『激変の地球』の書評は「科学者と出版社の忌まわしい行為」に対するものだったと明言している]
1956年12月、国際地球観測年が計画段階にあった時、ヴェリコフスキーはプリンストン大学の H. H. ヘス教授の仲介を通じて計画委員会に提案書を提出した:「……地磁気は地表から離れるほど弱まることは認められているが、電離層上空の磁場が地表より強い可能性も否定すべきではない」。また「説明のつかない月のリブレーション(揺れ動き)が、地理的極を回る地磁気極の回転と経度・緯度で一致するか否かの調査」も計画に含めるべきだと述べた。ヘスは委員会委員の E. O. ハルバートから、最初の提案が既に計画されている実験で正しいと証明されれば、二つ目の提案は後で調査される可能性があるとの通知を受けた。
[結果として、国際地球観測年(IGY)における最も重要な唯一の発見は、地球が遠方に及ぶ地磁気に閉じ込められた荷電粒子からなるヴァン・アレン帯に囲まれているという事実だった]
『激変の地球』は、コレージュ・ド・フランスの教授でありシリアのラス・シャムラ遺跡発掘者であるクロード・シェフェールの目に留まった。シェフェールが独自に構築した理論 ─ 古代中東文明が紀元前3000年紀と2000年紀に5度にわたり同時多発的な自然災害に見舞われたとする説 ─ は、1948年の著作『西アジアの比較地層学と年代学』で提唱されていた。
[ヴェリコフスキーは1945年、『スクリプタ・アカデミカ』誌に自身の論文要旨を発表している]
シェフェールは熱意を込めてヴェリコフスキーに書簡を送り、両者の文通はその後も続いた。1957年、ヴェリコフスキーはスイスでシェフェールと面会し、その後アテネでも再会している。
『オイディプスとアクエンアテン』は、ヴェリコフスキーがアクエンアテンを伝説のオイディプスの歴史的原型と特定した論考を収めた書物で、1960年に刊行された。これは当初計画されていた『フロイトとその英雄たち』の派生作品であり、その原稿はほぼ20年前に棚上げされていた。
[精神分析学の創始者の夢を再解釈した「フロイトが夢見た夢」は、1941年10月号の『精神分析評論』に掲載された]
この著作もまた、大半の学者から沈黙をもって迎えられた。ただし、全米を代表する古典学者の一人であるシカゴ大学のガートルード・E・スミス教授は、シカゴ・トリビューン紙に好意的な書評を寄稿した[19]。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙[20]において、オルブライトはこの説に反論した。その根拠は、エジプトとギリシャの間にこれほど早い時期に文化交流があったとは考えにくいというものだった。しかしミケーネ陶器はアクエンアテンの都で大量に見つかっており、アクエンアテン王の母の名が刻まれた印章がギリシャのミケーネの墓から発見されている。ロンドン・タイムズ紙[21]は匿名で本書を攻撃した。その手法はアメリカにおける『衝突する宇宙』への攻撃キャンペーンで用いられたものと同様で、信頼性に疑問のある書籍と本書を併せて論じることで、連座制(※「A国の人が犯罪を行った。よってA国の人は全員犯罪者である」というような、非論理的・感情的な主張を指す)による非難を試みたのである。
アトウォーターがヘイデン・プラネタリウムで『衝突する宇宙』を劇化する計画を突然中止してから10年後、米国宇宙探査機パイオニア5号が打ち上げられた。この実験は、地球や他の惑星がほぼ真空の空間で電磁的に孤立しているという考えを覆すことが運命づけられていた ― アインシュタインが放棄できなかった立場だ。パイオニアが太陽軌道を約6週間周回した後、NASAは記者会見を開き、その発見を報告した。1960年5月9日付ニューズウィーク誌はこう伝えた。「この一週間の驚異的な発見により、人類は過去50年間の知識の総和を超えるほど、地球を取り巻く近傍宇宙について学んだ」。宇宙旅行者にとって宇宙が静かな通路だという地球中心的な考え方は永遠に消え去った…… 膨大な宇宙の交通量(高温のガス雲、致死的な放射線、電気の帯)が高速で通り過ぎ、旋回し、交差し、衝突する…… パイオニア5号の功績とされる発見には、宇宙全体に広がる磁場、地球を囲む電流、太陽フレアからの高エネルギー荷電粒子が含まれる。
1954年から1960年にかけ、ヴェリコフスキーはヘス教授の招きでプリンストン大学地質学部の教員・学生の前で繰り返し講演を行った。ヘス教授は学生に異論に触れさせる重要性を認識していた。1961年4月12日、ヴェリコフスキーは再び大学院フォーラムで講演した。今回は「1950年の大異説のうち、1961年現在どれほどが科学的に正当か?」が主題で、天体と地球の領域から得られた裏付けとなる発見の膨大なリストを提示した。その同じ月の後半、アメリカの電波天文学者たちは金星の表面温度が6000°F(約3270℃)に達すると発表した。科学者たちは太陽系のこの新たな側面を説明するための"受け入れ可能な"理論を精力的に探し始めた。
1962年末、マリナー2号が金星に接近した頃、プリンストン大学の物理学者 V. バーグマンとコロンビア大学の天文学者ロイド・モッツは、『サイエンス』誌の編集者宛てに共同書簡[22]を送り、ヴェリコフスキーが太陽系に関する三つの一見無関係な事実 ― 地球の広範囲に及ぶ磁気圏、木星からの電波ノイズ、金星の極端に高い温度 ― を予測した先行性を指摘した。これらは近年における最も重要かつ驚くべき発見の一つだった。彼らはヴェリコフスキーの説を科学が客観的に再検討すべきだと強く訴えた。
また当時、ワシントンの米国海軍研究所とカリフォルニアのゴールドストーン追跡基地における地上からの電波観測により、金星がゆっくりとした逆行回転をしていることが明らかになったと発表された[23]。この特性は金星を惑星の中で特異な位置に置く。
これらの進展によって自分の主張が正しかったと確信し、また『サイエンス』誌にバークマンとモッツの書簡が掲載されたことに勇気づけられたヴェリコフスキーは、その書簡で指摘された点は、彼の著書で述べられた多くの考えのうちのほんの一部に過ぎず、それらはすでに独立した研究によって裏付けられていることを示す論文を発表しようとした。しかし、その試みは無駄に終わった。サイエンス誌の編集者フィリップ・アベルソンは、ヴェリコフスキーの論文を未読のまま返送し、代わりにポール・アンダーソンという人物からの冗談めいた手紙を掲載した。その手紙には「一、二個の良質のリンゴが偶然入っていたからといって、腐ったリンゴでいっぱいの樽が救われるわけではない」と書かれていた。
マリナー2号の調査結果が公表されると、ヴェリコフスキーの予想が正しかったことが確認された。金星の表面温度は少なくとも華氏800度(摂氏約427度)であり、その厚さ15マイル(約24キロ)の表層は、これまで考えられていた二酸化炭素や水ではなく、炭化水素の重い分子、そしておそらくはより複雑な有機化合物で構成されていた。
逆行回転、大気中の有機分子、金星の極端な高温は、既に多くの議論を引き起こしているものの、未だ説得力のある説明は得られていない。しかし『衝突する宇宙』では、これら三つの現象のうち二つが、金星が短く激しい歴史を持つ若い惑星であるという仮説の決定的な検証材料とされ、三つ目(異常な回転)も同様の結論を支持している。
異端者への抗議の叫びにもかかわらず、彼の著作は世界各国で熱狂的な支持を得ている。あちこちに小規模な研究グループが生まれ、ヴェリコフスキーの著作は多くの大学で教授陣の講義の必読書となっている。『衝突する宇宙』出版以来、熱心な読者からの手紙が絶え間なく著者のもとに寄せられている。同書の英国版は現在14刷、米国版は定期的に増刷されている。ドイツ語版は初版発行元で5刷を重ねたが、1952年に神学者(教会的・歴史的なサークル)によって攻撃され発禁処分となった。約6年間の絶版期間を経て、現在はスイス出版社により再版されている。
科学史において、これほど多様な予見 ─ 単一の核心的アイデアから自然に派生した ─ が、これほど迅速に独立した調査によって実証された例は稀である。ヴェリコフスキーの “突飛な仮説" は次々と実証的裏付けを得たが、1962年12月に『サイエンス』誌に掲載されたバーグマン=モッツの書簡で初めて、彼の名前が科学雑誌の頁上でこれらの “驚くべき" 発見と結びつけられた。しかも発見者自身による言及は未だ一度もない。様々な場面で繰り返される陳腐な言い回しとして、ヴェリコフスキーほど多くの予測を立てる者は、時折正しい予測をするに違いないというものがある。しかし彼の提唱した仮説が誤りだと証明された例は未だない。現在、米国科学アカデミー宇宙委員会議長を務める H. H. ヘス教授は最近ヴェリコフスキーにこう書いている。「これらの予測のいくつかは、あなたが発表した当時不可能だと言われていた。そして全てが、その正しさが証明されるずっと前に予測されていた。逆に、あなたがした具体的な予測で後に誤りだと証明されたものは、私の知る限り一つもない」
この実績は『衝突する宇宙』を、過去に批判する前に検証すら拒んだだけでなく、著者を誹謗する運動まで積極的に展開した学界が、今こそ長期間にわたり慎重に検証すべき根拠となるだろう。
注釈(「混沌の中の知性」で引用した参考文献)
1. 『スペクテイター』誌、ロンドン、1950年9月22日号
2. 『神経学と精神医学に関するジャーナル』1931年
3. 『シカゴ・トリビューン』1963年2月27日
4. 『ニューズウィーク』1963年3月11日
5. 『インディアナポリス・スター』1950年4月9日
6. 『シンシナティ・インクワイアラー』1950年4月9日
7. トロント・グローブ・アンド・メール紙、1950年4月22日
8. ロサンゼルス・タイムズ紙、1950年5月14日
9. エンジニアリング・アンド・サイエンス誌、カリフォルニア州パサデナ、1950年5月
10. 1950年4月22日(土曜文学レビュー)
11. 『アイシス』第41巻(1950年)
12. 『アメリカ科学ジャーナル』第248巻(1950年)
13. 『サイエンス』1951年4月30日号
14. 『アメリカ哲学会紀要』第96巻(1952年)
15. ネイチャー誌、第186巻、1960年5月14日号
16. ユダヤ系ブックランド誌、1952年9月号
17. ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン書評欄、1960年5月29日付
18. アメリカ哲学会紀要、第96巻(1952年)
19. シカゴ・トリビューン紙、1960年4月3日
20. ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙、1960年5月29日
21. ロンドン・タイムズ・リテラリー・サプリメント、1961年1月20日
22. サイエンス誌、第138巻、1962年12月21日
23. サイエンス誌、第139巻、1963年3月8日;ナショナル・オブザーバー、1962年12月31日

2. 『衝突する宇宙』出版後の波紋(露顕の余波)AFTERMATH TO EXPOSURE
ラルフ・E・ジョーガンズ著
『混沌の中の知性』は、1963年9月号の『アメリカ行動科学者』誌に掲載された記事をここに再録するものである。本稿はイマニュエル・ヴェリコフスキーの著作をめぐる10年以上にわたる論争を記録している。しかし物語は1963年で終わらない。その後起こった出来事 ─ その多くは『行動科学者』誌の研究が引き金となった ─ は新たな章を形成し、科学者たちが尊ぶ客観性のイメージは、これらの後続の出来事が次第に明らかになるにつれ、さらに輝きを失っていく。この物語には明るい側面もあれば影もあるが、多くの分野からの新たな知見という眩い光の下では、抑圧や中傷の行為が投げかける影は以前よりも一層濃く(陰鬱に)見える。
これらの出来事を適切な文脈に置くには、少し遡る必要がある。1963年8月 ─『行動科学者』誌のヴェリコフスキー特集号が掲載される前月 ─『ハーパーズ・マガジン』はエリック・ララビーの『衝突する科学者たち』を掲載した。同誌に1950年に掲載された彼の論文こそが論争の始まりだった。13年後のこの時、ララビーは天文学、宇宙科学、地質学、地球物理学における最近の発見を引用し『衝突する宇宙』の主張を支持する証拠として提示することで、ヴェリコフスキーの立場を強調することを選んだ。
『行動科学者』誌の寄稿者たちと同様に、ララビーは『サイエンス』誌(1962年12月21日号)に掲載された書簡に注目を促した。そこではプリンストン大学の物理学者バレンタイン・バーグマンとコロンビア大学の天文学者ロイド・モッツが、同僚たちにヴェリコフスキーの三つの極めて重要な発見予測における優先権を認めるよう訴えていた:(1) 金星の高温;(2) 木星からの非熱的電波ノイズの放出;(3) 宇宙空間における地球磁場の広大な到達範囲。
バーグマン=モッツによる科学的スポーツマンシップの訴えは、科学雑誌において何の反応も得られなかった[1 & 2]。それにもかかわらず、ほぼ同時期に金星探査機マリナー1号は金星の高温という現実についてあらゆる疑念を払拭し、さらにヴェリコフスキーが1945年という早い時期に提示した「金星の大気圏は主に炭化水素ガスと塵で構成されている」というさらなる示唆を強力に支持した。こうした問題に関する議論が編集方針によって、これまでと同様に厳しく封じられていることを確認した後、ララビーは再びハーパーズ誌へのアクセスを試みた。
「科学そのものは」とララビーは書いた。「ほとんどの科学者が彼の主張は終結したと考えているにもかかわらず、ヴェリコフスキーの方向へと向かっている。彼が提唱した当時、衝撃的と思われた提案は今や当たり前のものとなっている…… ヴェリコフスキーの核心的な思想は、その含意を抜き取り個別に捉える限り、今日では名高い科学者たちによって真剣に提唱されていないものなどほとんどない…… 科学界による彼の排除と抑圧は、科学者たちに苦渋に満ちた再評価を迫っている」
ほぼ同時に、ハーバード大学天文台長ドナルド・メンゼルの反論が発表された。この感情的な論考はフリーランスの原稿としてハーパーズ誌編集部へ送られた。しかし到着早々、著者が回収し、ララビーへの攻撃を弱め、ヴェリコフスキーへの攻撃を強めた改訂版と差し替えた。その非難は甚だしく、掲載前(1963年12月号)に編集長が次の文を削除した。「ヴェリコフスキーは、ヤギの腺時代のブリンクリー博士※や、アメリカ医師会が偽医者と暴いた数千人の連中と同様に完全に信用を失った。彼らは全く有益でない特効薬や装置を売りつけ、人間の苦しみにつけ込んでいる」
※ヤギの精巣を患者の陰嚢に縫い付ける"奇跡の"手術を売り込んだジョン・ロミュラス・ブリンクリーは、医師を詐称したアメリカ人。彼はヤギ精巣の人間への異種移植を通して、国民の名声、国際的な悪評、および莫大な財産を得た後に"ヤギ腺医者"として知られるようになった。 当初、ブリンクリーは勃起不全の治療方法としてこの施術を推進したが、最終的にその方法が男性の様々な病気のための実質的な万能薬であると主張するにいたった。 彼はいくつかの州で診療所と病院を運営し、医学界でブリンクリーを中傷する人間や批判者が最初から彼の方法を全く信用していなかったにもかかわらず、約20年もの間活動を続けることができた。
メンゼルは『サイエンス』誌に掲載されたバーグマン=モッツの書簡に激怒し、これを “差し出がましい"とみなした。彼はララビーが、ある曖昧な一節で皮肉な状況に言及したことに激怒しているように見えた。1952年、アメリカ哲学協会紀要においてメンゼルは、ヴェリコフスキーの太陽系における電磁気力に関する説が正しいとすれば、太陽の表面電位は1019(10の19乗、1000兆)ボルトでなければならないと計算を示した。天文学者によればこれは絶対不可能な値である。しかし1960年、 シドニー大学物理学名誉教授 V. A. ベイリー(ベイリー教授は1964年12月7日、スイスで死去。米国へ向かう途中だった。宇宙で自身の仮説を検証する実験が行われるのを目撃するつもりだった)は、太陽が電気的に帯電しており、表面電位が1019ボルトであると主張した。これはメンゼルの計算値と全く同じ値である。ベイリーは自身の理論を初めて発表した当時、ヴェリコフスキーの研究やメンゼルによるその否定について全く知らなかった。
「ヴェリコフスキーの荒唐無稽な仮説に対する定量的反証」─ メンゼル自身が1952年の『アメリカ哲学協会紀要』への寄稿をこう表現した ─ が今やヴェリコフスキーを支持する根拠として用いられるという事実は、ハーバードの天文学者にとって耐え難いものだった。そこで1963年、ハーパース誌に論文を送付する際、メンゼルはシドニーのベイリーにも同論文を送付し、付随する手紙で太陽上の電荷に関する自身の理論を撤回するよう要請した。この理論は、メンゼルや他のアメリカ人科学者たちがヴェリコフスキーの信用を傷つけようと継続的に行ってきた努力に疑念を投げかけており、メンゼルはベイリーの研究に誤りがあると指摘したのである。
ベイリー教授は、反ヴェリコフスキー派に迎合するために自らの研究を放棄すべきだという考えに反発し、メンゼルの論文に対する反論記事を準備した。そしてそれを『ハーパーズ』誌に提出し、メンゼルの論文と同じ号に掲載されるよう手配した。ベイリーはメンゼルの計算に単純な算術的誤りを発見しており、それがメンゼルの主張を無効にしていた。
『ハーパーズ』誌の編集部は、ララビーの記事によって引き起こされた論争の激しさに明らかに動揺し、ベイリーの投稿を拒否した。しかし、短い手紙で提出するならば、彼のコメントの一部を掲載することに同意した。しかし同時に、メンゼルはベイリーが指摘した計算上の誤りを訂正することを許可されたが、メンゼルは訂正が自身の議論にどのような影響を与えたかについては言及しなかった。ララビーはベイリーの反論論文のこのような利用に異議を唱えた。当初、メンゼルは自身の不注意の証拠を撤回することを許されなかったが、その後の弁解の後、訂正は認められた。
メンゼルがヴェリコフスキーの予測成績について述べた点から、当時のハーバード天文学者の心境が窺える。木星の電波ノイズに関連し、メンゼルは「科学者の大半が『衝突する宇宙』の理論を受け入れていない以上、ヴェリコフスキーの予測が検証されたように見えるのは単なる偶然だ」と記した。金星の高温については、天文学者は「"高温"とは相対的な用語に過ぎない。例えば液体空気は高温である[摂氏零下196度]が、液体ヘリウム[摂氏零下269度]と比べれば……」と論じた。メンゼルは記事の後半でこの比較に言及している:「金星の温度問題については既に決着した」
メンゼルが金星の温度について語ったのはこれだけだ。とはいえ1955年、彼自身は20年前に発表した「金星の地表温度は50℃」という推定値を撤回している。その撤回理由として、実際の温度は確実にそれよりずっと低いはずだと説明した。1959年時点でも金星の地表温度は17℃と推定されていた。しかしマリナー2号は少なくとも430℃、約800°F(華氏)であることを発見した。
地球の磁場の範囲についてメンゼルはこう記している。「彼[ヴェリコフスキー]は月まで及ぶと述べたが、実際には磁場は地球の直径数個分の距離で突然途絶える」
メンゼルが自らララビーに反論するより1年以上前、探査機エクスプローラー10は少なくとも22地球半径の距離で地球磁場を検出し、これが限界である兆候は示さなかった。最近では惑星間監視プラットフォーム衛星(特に IMP-1[エクスプローラー18号])(※プラズマや磁場を含む惑星間現象を研究するために設計された複数の衛星で構成されていた)が、地球磁気圏の尾部が「少なくとも月軌道まで」延びていることを発見した(『ミサイルズ・アンド・ロケッツ』誌、1965年1月18日号)
ララビーは、同じ号のハーパーズ誌に1ページに収めた返答で「メンゼル博士が事実の点に触れる場合、彼は誤解を招くか、あるいは誤った情報に基づいている」と指摘した。続く要約は、非科学者が科学者の論拠を粉砕する古典的例として残っている。特に注目すべきは、メンゼル博士の主論が、非科学者は科学的問題や科学的方法を理解しておらず、一般大衆の前で科学論争に参加するべきではない、というものだった点だ。ララビーの反撃がいかに成功したかは、以下の例が示す通りである:
メンゼルは、天文学者がヴェリコフスキーよりずっと前から惑星間空間に帯電ガスと磁場が存在することを認識していたと主張した。ララビーはメンゼル自身が1953年に記した言葉を引用した。
「実際、太陽から逃げる可能性のある電子の総量は、単電池の懐中電灯を1分未満しか点灯させられないだろう」
メンゼルは、地球のヴァン・アレン帯には正負の粒子が同数存在すると主張した。ララビーは、この帯を発見したジェームズ・ヴァン・アレン博士自身が、これ(正負の粒子が同数存在するという主張)は実験的証拠のない仮定であると認めている点を指摘した。
メンゼルは、ベイリーが示唆した規模の太陽電荷がもたらす地球近傍の宇宙空間における電界を計算しようとした。これに対しララビーは、その計算が宇宙空間は非導電性媒体であるという誤った前提に基づいていると反論した。
メンゼルは衛星の運動が電磁力の影響を受けないと主張した。ララビーは複数の宇宙科学者の論文を引用し、軌道運動と自転運動の双方が荷電粒子と磁場の影響を受けることを示した。
メンゼルはその主張として、太陽フレアによる地球自転の乱れは一時的な地球の加熱と膨張に起因するものであり、電磁気的効果ではないと述べた。ララビーは、この現象を発見したアンドレ・ダンジョン教授が熱的影響を評価した結果、全く不十分であると結論づけたことを指摘した。ダンジョンは電磁気学が唯一の可能性のある原因であると結論づけている。
メンゼルは自らの従来の見解を堅持し、金星の大気圏は氷の結晶で構成されていると主張した。またヴェリコフスキーが1950年に提唱した説 ─ 実際には1946年に天文学者ハーロー・シャプレー、ルーペルト・ヴィルト、ウォルター・S・アダムスへの書簡で既に表明されていた ─ 大気圏では炭化水素が支配的であるという説を嘲笑した。ララビーはハーバード大学の天文学者に、マリナー2号の金星探査公式報告書を含む複数の文献を提示した。そこでは金星の雲は凝縮した炭化水素で構成されていると述べられている。
要約すると、ララビーはこう記している:「ヴェリコフスキーは地質学や考古学など、他の多くの科学分野からの証拠を提示している。学問分野の壁を打ち破り、単独では到達できなかった結論に辿り着いた。これが彼の挑戦の本質であり、根本的な点だ」
ベイリー教授は、自身の手紙(1964年1月号『ハーパーズ』誌掲載)の限られた紙面で、メンゼル教授が「プリンストン大学の傑出した科学者 H. H. ヘス教授による最近の書簡に記された、ヴェリコフスキー博士の予測の価値を示す印象的な証言を完全に無視している」ことに驚きを表明した。ベイリーはメンゼルの太陽上の電荷理論への異議について「惑星間空間の物質的構成に関する時代遅れの見解と、地球規模の電磁気場法則が太陽のような非地球的な規模と温度の天体へ安全に外挿できるという未証明の前提を含むため、説得力に欠ける」と指摘した。ベイリーの見解によれば「宇宙科学者たちが開発した強力な新観測手法により知識が蓄積されるまでは、重要な[新たな]事実が科学者たちに、彼らが育ってきた天文学的観念に対して慎重な態度を取るよう迫るに違いない」
それより前に、ララビーの記事に対して天文学者ロイド・モッツが反論を寄せた。彼は(1963年10月号『ハーパーズ』誌への寄稿において)自身の目的はヴェリコフスキーの理論への異議を明確にすることだと強調した。しかしながら、彼はこう述べている。「私は彼の思想を提示する権利、そしてそれらの思想が真摯で献身的な研究者の産物として責任ある学者や科学者によって検討される権利を支持する…… 彼の著作は、非凡かつ卓越した知性の産物であり、現代において最も集中的で鋭い学究的探求に基づくものであるため、注意深く研究・分析されるべきだ……」
ハーパーズ誌での論争は1963年8月、10月、12月号、そして1964年1月号にわたり続いた。同時期に編集方針の壁を破ろうとした別の試みは失敗に終わった。
1963年春、ヴェリコフスキーはかつて異端視された自身の予測の多くが実証され、さらに驚くべきことに予測が一つも外れていない事実が、科学者たちの間で自身の立場を変え、ついに学術誌への掲載が認められるかもしれないと考える理由があった。『正確な予測の追加事例』と題した論文が、フィリップ・アベルソン(『サイエンス』誌編集長)によって未読のまま却下されたにもかかわらず、ヴェリコフスキーは『金星、若き惑星』に関する論文を準備した。その年、アメリカ地質学会の会長を務めていた H. H. ヘスは、学会会員としての推薦を添えて、この新論文をアメリカ哲学協会に送付し『学会紀要』への掲載を提案することを申し出た。
この単純な寄稿が、冷静さが戻る前に、学会を分裂寸前に追い込む嵐を引き起こしたようだ。
ヴェリコフスキー博士の論文が哲学協会に保管されていた半年間の幸不幸は、ジョージ・W・コーナーとエドウィン・G・ボーリングという二人の人物の発言によって部分的に明らかにされている。二人ともヴェリコフスキー事件において以前から役割を果たし、これまで語られることのなかった人物である。
1952年、コーナーは哲学協会年次総会における「現代科学における非正統的見解」シンポジウムの議長を務めていた。ハーバード大学の女性天文学者セシリア・ペイン=ガポーシュキンが『衝突する宇宙』を極めて過激かつ無責任な方法で批判した論文の朗読後、ヴェリコフスキーが壇上に立ち自らの見解を述べることを許可したのは彼だった。このコーナーの公平な対応は後に学会出版委員会によって否認され、ヴェリコフスキーがガポーシュキンの誤引用を訂正した文章は『学会紀要』への掲載を却下された(『衝突する宇宙』とガポーシュキンが同書から引用したと主張する文章の比較については231ページ[付録1]を参照)。1963年までに、コーナーは協会の執行役員兼『学会紀要』編集長に就任していた。
したがってヴェリコフスキーの金星論文は直接コーナーの手に渡った。ヘスが論文を提出してから数か月間、その処理に関する連絡は一切なかった。その間、ララビーの『ハーパーズ』誌掲載記事と「科学の政治学とヴェリコフスキー博士」特集号の『行動科学者』誌が相次いで発表された。これらの文書は、少なくとも哲学協会出版委員会の何人かの委員の目に留まったに違いない。
ついに1963年10月15日付の書簡で、コーナーはヘスに報告した。出版委員会は、ヴェリコフスキーの論文を “長時間にわたり" 議論した数回の会合を経て、"意見の対立" により膠着状態に陥っていた。委員会は二つの対立する陣営に分裂し、互いの見解に譲ろうとしなかった。コーナーはヘスに対し、出版委員会ではなく「学会の会員である複数の責任ある科学者や学者の助言を求めるよう指示された」と伝えた。彼は今後の進展についてヘスに報告を続けることを約束した。
1952年の異端思想シンポジウムのプログラムでは、セシリア・ガポーシュキン、科学史教授の I・バーナード・コーエンと共に、心理学教授のエドウィン・ボーリングが登壇予定者だった。こうしてパネルはハーバード大学教授陣が主導した。ボーリングは講演及び後に『学会紀要』に掲載された論文で、ヴェリコフスキーを嘲笑することを怠らなかった。それから2年後、1954年10月号の『アメリカン・サイエンティスト』誌に掲載された記事で、彼はヴェリコフスキーを証拠が不利に傾いた後も、エゴのみで支えられて自らの考えに固執する者たちと同列に扱った。
しかしここにきて、ボーリング教授は立場を変えた。1963年秋、ナッシュビルのジョージ・ピーボディ大学キャンパスを訪問した際、彼は『行動科学者』誌が再掲した “この卑劣なゴタゴタ" について新たに抱いた見解を明らかにした。特にハーロー・シャプレーの果たした役割を厳しく批判した。
ボーリングはピーボディ大学で、出版委員会の荒れた会議においてヴェリコフスキーの論文掲載の是非が激しく議論された事実を明かした。さらに彼は『学会紀要』に新設される「レターズ」欄の責任者に自身が任命される予定であることをほのめかした。この欄は論争を呼ぶ論文にとって “適切な媒体" となるはずであり、その論文が同欄の最初の掲載記事となる予定だった。このような方法で処理すれば、学会が承認していることを示唆することなく掲載が可能となる。
しかし結局、この体面を保つための妥協案すら失敗に終わった。1964年1月20日付の書簡でコーナーはヘスにこう報告している。
「出版委員会は…… ヴェリコフスキーの短編原稿が提起した問題について、長期間にわたり慎重な検討を完了した…… 過去数ヶ月間、委員会の指示のもと、私はこの論文を著名な科学史家、同等に著名な社会学者、そしてヴェリコフスキーの批判者たちの輪とは全く無縁の、非常に高い地位にある天文学者に提出した。
あらゆる対応策を検討した極めて慎重な議論の末、委員会は本学会がこの論文を出版すべきではないと決定した……」
『科学の政治学とヴェリコフスキー博士』は1963年9月に『ABS(アメリカ行動科学者:社会科学および行動科学の分野で論文を発表する査読付き学術雑誌)』誌に掲載され、瞬く間に全国の大学キャンパスで激しい議論の的となった。これは『衝突する宇宙』の出版差し止め事件が初めて文書化された事例だった。通常より増刷された初版は追加注文の殺到により即座に品切れとなり、再版された。
読者の反応は概ね好意的だった。多くの学者や財団職員が編集者アルフレッド・デ・グラツィアに賛辞の手紙を送った。また、ヴェリコフスキー本人宛に直接手紙を書き、人類の知識への貢献が近いうちに認められることを願う旨を伝えた者もいた。ごく少数の批判的意見の一つが、アルフレッド・P・スローン財団の副理事長ウォーレン・ウィーバーから筆者宛に寄せられた手紙に表れている。ウィーバーは「この真面目な学術誌[ABS]が、このような一連の記事にこれほど多くの紙面と労力を割くとは、驚き、失望し、実に愕然とした」と主張した。これは、スローン財団の幹部たちがヴェリコフスキーの思想に対する公衆安全委員会を自ら設けた、数ある事例の最初のものに過ぎなかった。
コロンビア大学バーナード・カレッジのバーナード・バーバー教授は、出版から数週間以内に「私はすでに、科学的発見に対する科学者の抵抗に関する私の一般論文に関連して、知識社会学の授業であなたのヴェリコフスキー問題を非常に良い教育目的で使用した」と報告した。
ピッツバーグ大学大学院公共国際問題学部の社会学助教授チャールズ・ペローは、ABS(アメリカ行動科学者)のヴェリコフスキー特集号について「社会科学の講義で必読とすべきだ」との確信を表明した。
ワシントン大学の G. A. ランドバーグはこう記した。「A.A.A.S.(アメリカ科学振興協会)は言うまでもなく、個々の科学者や団体も、今や詳細な反論を準備すべきだと考える。真の問題は、確立された科学の代弁者たちが新たな科学的アイデアを受け入れる際の慣習にある」
実際、科学のスポークスマンたちがABS(アメリカ行動科学者)の主張を取り上げるのは魅力的だった。メンゼル教授が自ら進んで『ハーパーズ』誌のララビー論文に反論したが、多くの同僚の見解では、その論争では非常に不利な立場に立たされた。しかし『行動科学者』誌へのより慎重で巧妙に計算された反論は、決定的な効果をもたらす可能性があった。
科学コミュニティの行動に対する問題提起は本質的に倫理問題であったため、こうした問題を追求する媒体として『原子科学者会報』が自然な選択肢に見えた。同誌は “科学の良心" の発信媒体であることを自負している。読者は25,000人以上に及び、世界の主要科学者の大半が含まれる。同誌はこうした人々の間で威信を持ち、科学の政治性に関する調査を行う義務がある。つまり科学的行動に関する客観的な自己分析を求める義務だ。過ちの告白の場であり、科学のイメージ向上に向けたアイデアを表明する場でもある同誌は、ヴェリコフスキー事件の問題に取り組む場として理想的である。しかし残念ながら、同誌はヴェリコフスキーに対する公正な対応の提案に対して、むしろ敵対する姿勢を選んだ。
『原子力科学者会報』誌の編集者ユージン・ラビノウィッチが後に H. H. ヘス教授への書簡(1964年9月8日付)で認めたように、ヴェリコフスキーの理論への関心が広く再燃し、同誌が彼を偉大な学者として擁護したことは、是正措置を必要とする事態だった。明らかにラビノウィッチは、ヴェリコフスキーを弾圧した共謀の行為で公に非難されていた同僚科学者たちと結束を固めることを最優先の義務と考えた。
ラビノウィッチはワシントン特派員ハワード・マーゴリス(科学者とは無縁の人物)に、ABS(アメリカ行動科学者)とヴェリコフスキーへの攻撃を指揮する任務を与えた。マーゴリスは『衝突する宇宙』に対する以前の非難で壊滅的な効果を発揮した手法を再び用いた。彼の低俗で全く無責任な記事「ヴェリコフスキー再登場」(『会報』1964年4月号)は、歪曲や誤引用、嘲笑や冷笑、根拠のない告発の断定、既成理論を事実として独断的に提示する内容で満ちている。
マーゴリスは、文献学やエジプト学といった分野を論じることを選んだ。彼自身には不慣れな分野だが、その本質的な魅力は『会報』の読者の大半がこれらの分野に疎く、したがって編集者と著者の誠実さに依存せざるを得ない点にあった。
ヴェリコフスキーの出典の一つを読むのに必要な初歩的なフランス語すら知らないことを露呈しながら、マーゴリスは虚勢を張った ―「さて、実際の碑文を調べてみると……」と前置きし、エジプトのエル・アリシュで発見された象形文字テキストに対するヴェリコフスキーの解釈について、全く混乱した議論を展開した。これは嵐と暗闇、そして渦潮でファラオが死んだことを記した石碑の碑文だ。この碑文には地名「ピ・キロト Pi Kirot」が登場する。出エジプト記ではイスラエルの部族が紅海を渡った場所として「ピ・ハヒロト Pi ha-hiroth」の名が記されている。ヴェリコフスキーは『衝突する宇宙』で、そしてマーゴリスの知らないうち『混沌時代』で論を展開し、両方の記述が同じ場所を指していると示唆した。この地名はエジプトの記念碑に一度、聖書にも一度しか登場しない。文脈上、両資料とも嵐と暗闇、そして水に飲み込まれたファラオに降りかかった破滅的状況を伝えている。
マーゴリスの混乱した議論から浮かび上がる事実は、彼がエジプト語が母音なしで書かれることを理解しておらず、ヘブライ語で定冠詞として “ha" が使われることすら認識していないということだけだ。皮肉なことに『会報』のワシントン特派員は、世界有数の東洋学者であり『混沌時代』を厳しく批判したウィリアム・F・オルブライト教授が1946年という早い時期に既に認めていた言語学的結論について、ヴェリコフスキーに異議を唱えることを選んだのである。
ラビノウィッチはマーゴリスの虚栄に満ちた論文を何のコメントもなく掲載した。
この中傷記事が権威ある『原子科学者会報』に掲載された際、同誌の元寄稿者であるエリック・ララビーは編集長に連絡し、近刊号での反論掲載を約束された。しかし彼が指定された締切日に原稿を提出すると、掲載スペースがなくなったと告げられた。
マーゴリスの論文が単に下品で学術的でない内容であったにもかかわらず、組織化された科学界が支配する分野では熱心に受け入れられた。例えば、アルフレッド・P・スローン財団の副理事長である L. H. ファリンホルトは、同論文の写しをコロンビア大学のギリシャ語教授モーゼス・ハダスに送付した。ハダスは出版された書評で「現代においてイマニュエル・ヴェリコフスキーは…… 正当化されつつあるように見える」と述べていた。ファリンホルトはハダスがマーゴリスの論文を「興味深く、おそらくは滑稽に感じるだろう」と考えたのである。
ハダスは、ヴェリコフスキーの天文理論の妥当性については意見がないと返答した。「だが彼が不誠実ではないことは知っている。私を悩ませたのは、彼に対する攻撃の過激さだ。もし彼の理論が荒唐無稽なら、中傷キャンペーンなどなくとも、時が経てばそのように暴かれていたはずではないか? 次々と書評が彼の言葉を誤って引用し、その誤引用を攻撃した。だから君が送ったマーゴリスの記事では……[ハダスはマーゴリスによるヴェリコフスキーの正確な引用文の歪曲例をいくつか挙げる]…… 無知で軽率なのはヴェリコフスキーではなく、彼の批評家の方だ…… 問題は当たり前のフェアプレーの問題だ」
1964年5月12日、『アメリカ行動科学者』誌の発行人アルフレッド・デ・グラツィアはラビノウィッチに書簡を送り、マーゴリスの記事における数々の歪曲を『会報』編集部が撤回するよう要求した。「当誌の寄稿者及び顧問陣は、我々に対する不当な扱いを是正する措置を取るよう強く求めている。我々はまず第一に貴殿の学術的善意に頼りたいと考えているため、この措置を躊躇している」
ラビノウィッチは6月23日、デ・グラツィアに長文の返書を送った。その中で訴訟を起こさないよう強く求め「雑誌は誹謗中傷的な発言に対する法的責任を免れないが、マーゴリスの記事には貴殿や貴誌の寄稿者に対するそのような性質の発言は見当たらない」と述べた。こうしてラビノウィッチは、ヴェリコフスキーが誹謗された事実を暗に認めつつ「マーゴリスが古文書学的証拠を提示した以上、公平を期すため『会報』は当該証拠に異議を唱える書簡を掲載すべきである(ただしその書簡がマーゴリスの批判以上に攻撃的でない場合に限る)」と提案した。彼は、権威ある科学者が執筆し提出するならば、ヴェリコフスキーの見解を提示する記事を掲載すると申し出た。ラビノウィッチはこう結論づけた。「この科学的議論の精神こそが、問題全体を解決すべき道である」
ラビノウィッチの立場を知らされたヴェリコフスキーは、ヘブライ語とエジプト語の文献学および古文書学に関する事項について、マーゴリス(ハワード・マーゴリス)との議論に加わることに同意しなかった。『会報』記事の筆者はこれらの分野で明らかに無能さを露呈していた。しかしラビノウィッチが「科学的議論の精神」について言及したことから、ヴェリコフスキーは、肯定的な見解を表明した論文を発表してもよいと考えていた。ヘス教授は、アメリカ哲学協会が以前に返却したヴェリコフスキーの論文「金星、若き惑星」を『会報』掲載のために提出することに同意した。
1964年9月8日(前述の部分引用済み書簡において)、ラビノウィッチはヘスにこう返答した。「残念ながら『会報』での掲載はお断りせざるを得ない ─ 我々が掲載を “恐れている" からではなく『会報』は科学的論争を扱う雑誌ではないからだ……
私はヴェリコフスキーの著作、いやその論文(本書簡と共に返却する)すら研究する資格も時間も持ち合わせていない。しかし現代科学に教条主義はなく、そして時間相対性や素粒子世界における厳密な因果関係の不在といった革命的新説を容易に受け入れる姿勢は承知している ─ だから、有能な天体物理学者たちがヴェリコフスキーの理論について偏見のない判断を下すことを信頼している。そして私の知る限り、有能な科学者で[それら]を支持する声を上げた者は一人もいない(たとえ君とプリンストン大学の同僚の一人が『サイエンス』誌でヴェリコフスキーの特定の結論の驚くべき正確さを指摘する義務を感じたとしても)」
このひとりよがりな表現を、ラビノウィッチが1963年の著書『新時代の夜明け』で述べた次のコメントと比較するのは興味深い:
「科学者として我々は共通の経験を持つ ― 科学において、個人の自由な探究と束縛されない探求こそが、最も重要な進歩の究極の源泉であるということだ。最大の科学的発見は、異端的な疑問を投げかけ、広く受け入れられた概念の妥当性を大胆に疑った、非順応的な個人たちの努力によってもたらされてきた……」(p. 222)
「私は、現代の科学者たちの責任は、人間社会にもう少し懐疑的な合理性をもたらし、偏見を少し減らし、事実や数字への敬意を高め、理論や教条に対する批判的態度を強め、我々の知識の限界に対する意識を高め、その結果として異なる考えに対する寛容さを持ち、それらを実験の検証に委ねる用意を持つことだと信じている…… 科学者にとって、絶対的な真理など存在しない。探求を禁じられた領域も、タブー視される言葉も、排斥された思想や禁じられた思想など存在しない……」(p.223)
「科学者は常に、自らの信念や発見、一般化を、終わりのない観察と実験の検証に委ねる覚悟を持たねばならない。彼が慣れ親しんだ原理を覆す新理論に対して全く抵抗がないわけではないが、あらゆる集団の中で、科学者は最も開かれた心を持つ者、変化を受け入れる準備が最も整った者だ。新たな事実を考慮せず、それに合わせて考えを変えることを拒む者は、科学者として貧しい存在である。科学が唯一許さないのは、不寛容そのものだ。つまり、特定の概念が神聖不可侵であり、疑いの余地なく真実であり、論理や経験による検証から守られるべきだという主張である」(p.323)
※🤣↑典型的な、学者、エリートの100点満点の作文。
ラビノウィッチはデ・グラツィアやヘスとの書簡で、ヴェリコフスキーの著作を読んでいないことを認めている。さらに彼の記憶は不完全だった。デ・グラツィアへの書簡では、シャプレーとメンゼルがヴェリコフスキーの理論を分析したとの漠然とした記憶を述べたが、シャプレーはこの主題に関する論考や論文を一切発表していない。ヘスへの書簡では、より近年の出来事について混乱を示す証拠を残している。彼はヘスを『サイエンス』誌に掲載されたバーグマン=モッツ書簡の執筆者の一人と誤認したのである。それでもなお、ヴェリコフスキーの著作を全く知らないこと、他者の発言や行動に関する記憶が曖昧であることに基づいて、彼は『衝突する宇宙』に対する攻撃キャンペーンを開始し、その作戦の指揮を無資格のジャーナリストに委ねた。
デ・グラツィア教授は1964年10月号の『行動科学者』誌にマーゴリスの文章を全文掲載し、その無知と誤った主張の数々を詳細に指摘した長文の論評(54例)を付した。これに対しマーゴリスは次のような書簡を送った:「読者の諸君が本件について判断を下す前に、せめて一つの出典でヴェリコフスキーの主張、私の主張、そしてデ・グラツィアの反論を確認するよう提案したい。アウグスティヌスの『神の国』を推奨する……エル・アリシュ写本とは異なり……この書物はどの図書館でも入手可能だ……」。同封の手紙で、マーゴリスはデ・グラツィアとの面会を提案し、和解を図ろうとした。
マーゴリスは、自身の解釈対象としたエル・アリシュ文書が写本ではなく石碑銘であることを、記事掲載から数カ月経ってもなお知らなかった。彼はデ・グラツィアの読者に、アウグスティヌスにおける「ミネルヴァ、デウカリオン、ヴァロ、オギュゲス、ヴィーナスなど」の言及を確認し、ヴェリコフスキーの見解を学ぶよう勧めたのである。明らかに彼は、誰もこの提案を実行に移さないことを望んでいた。さもなければ、このようなほのめかしを敢えてするはずがなかった。
デ・グラツィアは応じた:
「あなたはヴェリコフスキーが聖アウグスティヌスの『神の国』を誤って引用したと主張するが、具体的な出典を示していない。引用文の正確性に関する問題は、具体的な原文を参照しなければ解決できない。聖アウグスティヌスからの引用に関して、君自身の論文ではたった一つの例しか挙げておらず、その点では君の主張は根拠がなかった…… もし君が、イマニュエル・ヴェリコフスキー博士の説と矛盾する古代文献の原文を知っているなら、それを公表することで知識に貢献できるだろう。だが、あなたがそれらを引用しない限り、いかなる議論も空論に終わる。確かな事実は、ABSが証明した通り、あなたがABS(アメリカ行動科学者)の執筆者たち、ヴェリコフスキー博士の著作、そしてあなたの記事で言及された二つの古代文献を誤引用または歪曲したということだ。引用の正確さに対する懸念を表明し、この問題を是正するための措置を講じてほしい。
既に54点において誤っているのだから、あなたがそのスコアを上げるべきではありません(そのような行動は不適切です)」
書評家の無責任さの問題は、1965年の夏に再び注目を集めた。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、ワシントン・ポスト、サンフランシスコ・エグザミナーの日曜付録『ブック・ウィーク』は、ロケット工学と宇宙旅行の一般向け著作で知られるウィリー・レイによる『衝突する宇宙』の書評を掲載した(1965年7月11日付)。本書初版から15年を経てこの書評が書かれたのは、『激変の地球』と共にペーパーバック版(デルタ社、1965年)が刊行されたことが契機だった。
レイは自身の評論の中で、先行する批評家たちが用いたほとんどすべての手法を、まるで戦場に持ち込むかのように再び持ち出している。彼は『衝突する宇宙』の主張を、わざと滑稽に見えるように要約することで退ける。ヴェリコフスキーの著作を、長年信用を失った激変説論者であるハンス・ヘルビガーの著作と同列に分類する。ヘルビガーの推測は検証可能な予測に結びついたことは一度もない。彼は、ヴェリコフスキーの資料の扱いに同じ誤った一般化を弄する(「……聖書は半分は本来語るべきことを語っていない」)。しかし、具体的に指摘する機会を軽んじる。彼は、自らが理解しようともしない学術的推論の手法に異議を唱える(「……古文書への言及は……物理的事象の証明を確立する特異な方法である」)。彼は『激変の地球』でヴェリコフスキーが集めた資料に対する自身の無知を誇示する(「……動物は紀元前1500年の運命の年を何の混乱もなく過ごした」)。また、金星が木星から噴出したという説の「完全な不可能性」を自ら数学的に証明しようとするが、宇宙物理学者 R. A.リットルトンが最近、金星は木星または他の主要惑星からの噴出によって形成されたに違いないことを数学的に実証したことを知らないことを露呈している。
ヴェリコフスキーは『ブック・ウィーク』誌の編集者から、レイの非難に対する反論を書くよう依頼された。この機会を利用して、概して批判的でない批評家たちに答えるべく、彼は長文の記事を準備した。それは1965年9月9日付の『ブック・ウィーク』に掲載された。
ホレイス・マイアー・カレン教授はこの反論を読んだ後、ヴェリコフスキーに手紙を書いた。
「君はレイを、彼が抜け出すのが非常に困難な立場に追い込んだと思う」
『衝突する宇宙』と『激変の地球』のペーパーバック版出版は、記録に値する別のエピソードを引き起こした。
1965年3月、デル出版社がデルタエディションを告知する控えめな広告を『サイエンス』誌と『サイエンティフィック・アメリカン』誌に掲載するよう依頼した。両誌は広告掲載を拒否したが、その旨を文書で伝えることを嫌った。しかし結局、『サイエンス』誌の編集長ロバート・V・オームズが広告代理店フランクリン・スピア社に次のような手紙を送った。「シェラゴ氏(『サイエンス』誌の広告部長)が電話でお伝えした通り、貴社が提出した広告は『サイエンス』誌では掲載できません」。代理店はデル社宛のメモで次のように報告している。「我々は、拒否の理由を記載した書面の提出を主張した。これまでのところ、サイエンス誌からの “回答" はこれだけであり、関連書籍について言及することを巧みに回避したものに留まっている」
おそらくは不注意から、サイエンス誌は、1965年5月7日号の"新刊"コーナーの"再版"欄に『衝突する宇宙』の文庫版を掲載した。
ヴェリコフスキーが科学界で受けた評価の経緯には、ある現象が繰り返し現れる。著名な科学者が次々と著者と理論を批判し嘲笑した後 ─ プライドのかけらもなく ─ その書籍を読んでいないと述べるのである。
この傾向は、ハーロー・シャプレーがインタビューで、セシリア・ペイン=ガポーシュキンが書面で『衝突する宇宙』の出版前に批判を表明した時点で早くも確立されていた。ミシガン大学の天文学者ディーン・マクラフリンは、ヴェリコフスキーの本を絶対に読まないと自慢しながらも、それを「嘘ばかりだ」と宣言することに何の躊躇も感じなかった。フィリップ・アベルソンは1963年、ヴェリコフスキーの論文を読む必要性すら感じずに却下した。ラビノウィッチも別の論文で同様の対応を取り、同時に自誌の権威を背景に、ヴェリコフスキーを無能と烙印を押す運動を再開した。
もう一つの現象は、ヴェリコフスキーを批判する科学者たちが、自らの客観性を主張する際、アインシュタインの理論を受け入れていることを引用する速さだ。ヴェリコフスキーとアインシュタインの比較において、両者の著作が異なる評価を受けることを正当化しようと、アインシュタインの名や相対性理論が繰り返し持ち出されてきた。半世紀を経た今でもその妥当性を証明する確固たる証拠がないにもかかわらず、最高度の評価を受けているアインシュタインの理論は、模範的な科学的理論として掲げられる。一方、ヴェリコフスキーの理論は、それに基づく多くの予測がすでに立証されているにもかかわらず、非科学的として拒絶される。この立場の論理 ― 最近ではラビノウィッチが採用したもの ― は、理解しがたい。
ヴェリコフスキーの異説が提起する問題に対するさらに別のアプローチは、彼の主張を支持する証拠を軽視するか、完全に無視することだ。この手法は、彼の成功した予測についての議論や認識を回避する。ハーバード天文台が発行するアマチュア天文学者向け雑誌『スカイ&テレスコープ』は、マリナー2号の成果を、宇宙船上で実験を行ったジェット推進研究所のスタッフによる書籍『マリナー、金星へのミッション』の要約を転載して報じた。原文の小さな省略部分は転載版で点で示されているが、四箇所の主要な削除箇所には何の印も付けられていない。
改変された原文を復元するには、以下の部分を再挿入する必要がある:
(1) 「自転は逆行している可能性がある……」
(2) 金星の雲は「おそらく油状懸濁液として保持された凝縮された炭化水素で構成されている……」
(3) 「地表に水が存在することは不可能だが、何らかの溶融金属の小さな湖が存在する可能性はある」
(4) 「赤みを帯びた太陽光が……15マイル厚の雲層を通り抜けるかもしれないが、地表はおそらく非常に荒涼としている」
これらの点 ― (1) 過去の異常な挙動を示唆し、(2) ヴェリコフスキーの特定の予測を裏付け、(3) 金星の水雲運動に関する従来の説に異議を唱え、(4) 温室効果による日光の捕捉によって金星が加熱されるという理論に克服できない障壁を築く― が、ハーバード大学の編集室で置き去りにされたのは単なる偶然だろうか? ハーバード大学には、こうした事柄を調査する責任があるのだろうか?(デ・グラツィアが1963年に問うた疑問である)
有力な科学者たちは、一般向け雑誌や新聞でヴェリコフスキーに好意的な言及がなされることに対し、今なお圧力をかけ続けている。最も手っ取り早い手口は、科学理論を判断できるのは科学者だけだ ─ できれば権威ある科学者たちだけだ ─ と編集者に印象づけることだ。そして科学は一般大衆にとって重要なニュース源であるため、編集者はこうした助言を拒む傾向にない。1963年にニューズウィーク誌が計画した、ヴェリコフスキーの予測とマリナー2号によるその実現に注目を促す記事は、ニューズウィークの編集者とハーロー・シャプレーとの電話会談後に中止された。シャプレーは、1946年にヴェリコフスキーが「自身の理論の決定的な検証は金星の大気中の炭化水素探索である」と書簡を送った天文学者である。
ソビエト連邦では、大衆科学誌『ナウカ・イ・ジズン(科学と生命、1890年から1900年にかけてロシア帝国で最初に発行され、その後1934年以降はソビエト連邦で、そして今日のロシア連邦で継続して発行された科学雑誌)』が1962年から続く連載記事で、ヴェリコフスキーの理論をさりげなく紹介している。アトランティス沈没伝説の年代測定に余分なゼロが紛れ込んだという仮説さえも、括弧付きで言及している。ただし、この連載ではヴェリコフスキーの名は一切触れられていない。
イタリアの多言語誌『機械文明』は、1964年5月-6月号において、科学的方法の精神を保つための永遠の警戒の必要性を強調した。これはガリレオ生誕400周年を記念した前号で長々と論じられたテーマである。ローマ大学数学研究所のブルーノ・デ・フィネッティ教授が、この5月-6月号のリード記事を寄稿した。
編集部が提示したテーマを例示すると、科学は懐疑主義から自らを守らねばならない。懐疑主義は認識を無関係な仮説の連鎖に限定する傾向がある。同様に、科学は教条主義からも自らを守らねばならない。─ デ・フィネッティ教授は、学術界の大多数がヴェリコフスキーの思想を議論することすら拒む姿勢こそが「他のいかなる教訓よりも重要な一つの教訓」を伝えると述べた。科学における専門職化と部門化は、科学に不可欠な継続的な更新に対する主要な障害となっている。
つまりデ・フィネッティによれば、学者たちがヴェリコフスキー研究の価値を議論しなかったのは、より個人的な問題に注意がそらされていたからだ。すなわち彼が、既成の技術と難問によって「彼らの化石化した脳が安らかに眠る権利」に挑戦した事実である。こうした既得権益を守り、安楽な学際的境界を維持しようとする姿勢は「各専門分野の集団、そして科学者という大きな集団全体を、一種の専制的かつ責任を問われないマフィア(結束の固い権力者の集団)へと変貌させる」可能性がある。
アメリカの科学者や科学編集者がヴェリコフスキーの考えを無視し続け、あるいは激しく非難し続ける一方で、非人格的な科学そのものは、新たな証拠を提示することで、自らのより従来型の理論を打破し続けている。多くの新証拠はヴェリコフスキーを支持する傾向にある。その一部は単に彼の見解と整合するに過ぎない。しかし、これまでのところ、それらを反証したものは一つもない。
1964年4月、電波天文学者たちが木星の自転周期が突然変化した証拠を発表したことは一面ニュースとなった。電波源の回転周期と惑星本体の回転周期の対応関係は完全に推論に過ぎないが、電波源で観測された急変の時期は、木星の赤斑の回転周期における同様の変化と一致していた。この件に関連して、1963年9月にヴェリコフスキーがヘス教授の要請に応じて送付した宇宙研究提案覚書には、以下の提言がなされていることに留意すべきである:「太陽系全体に浸透する磁場が、[木星]の運動に及ぼす影響について精密な計算を行うべきである。木星は、おそらく地球の磁気圏の1014倍の強度を持つ磁気圏に囲まれている。これは天体力学における電磁気効果の再評価に不可欠である」
ハンブルクで開催された国際天文学連合会議(1964年)では、水星と金星が熱烈な関心を集めた。オーストラリアの天文学者らは、水星の暗部で摂氏約315度(華氏600度)の温度が観測されたと報告した。この領域では零下数千度の低温が予想されていた。『サイエンティフィック・アメリカン』(1964年10月号)によれば、「この驚くべき高温の理由として提示された説明はさらなる驚きをもたらす。すなわち、水星の質量が小さく太陽放射圧に晒されているにもかかわらず…… 太陽光の当たる側の豊富な熱エネルギーの一部を、日陰側へ移すのに十分な大気を持っている」と報じた。おそらくより合理的な説明は、いずれ『衝突する宇宙』の続編で見つかるだろう。同書は過去の災害を扱っており、少なくとも一つは人類の記録が水星に起因するとする大災害である。
金星の新たなレーダー観測により、逆行回転が確認された。これはマリナー2号のフライバイ時頃に、ジェット推進研究所ゴールドストーン追跡ステーションの科学者らが初めて検出した現象である。コーネル大学とマサチューセッツ工科大学の科学者によるプエルトリコ・アレシボ電離層観測所でのレーダー観測は、自転周期を247日±5日と特定した。この惑星は太陽を225日で公転している。
英国とソ連の研究者も逆行回転を確認している。
米国の惑星間観測プラットフォーム(IMP)衛星エクスプローラー18号は、月周辺の磁気圏、つまり太陽から離れた側で少なくとも68,000マイル(約109,000キロ)の宇宙空間に広がる涙の形 teardrop をした領域を発見した。同じ探査機は、地球の夜側の夜間に、高エネルギーの電子が扇状に広がり、航跡のように尾を引く領域を発見した。この発見を最初に報告した K. A. アンダーソンは、月が地球を周回する間にこの尾に遭遇している可能性が高いと考えている。ゴダード宇宙飛行センターの N. F. ネス博士は、地球の尾は月の軌道をはるかに超えて伸びている可能性があると考えている。
地球の尾は、太陽と反対方向への地磁気の延長であると考えられている。1953年、ヴェリコフスキーは、地球の磁場は月まで達し、月の説明のつかないリブラトリー運動(秤動、ある天体からその周囲を公転する衛星を見た時に、その衛星が見かけ上行うように見える、または実際に行うゆっくりとした振動運動)、すなわち揺れるような動きを引き起こしているのではないかと示唆した。
1965年9月5日付の『ブック・ウィーク』誌でヴェリコフスキーはこう主張した。「7月、マリナー4号は火星が地球よりも月のような性質を持つという私の見解を裏付けた:『火星がそれより大きく強力な他の惑星と接触した事実から、かつて存在したとしても、火星に高等生物が生存している可能性は極めて低い。むしろ、火星は死んだ惑星である』(『衝突する宇宙』364ページ)……火星に月のようなクレーター状の地形が存在する理由は、これらの地形が形成された過程に由来する。火星は加熱され、沸騰した。惑星間を飛び交う雷撃に晒され、巨大な隕石にも襲われた。これらの出来事は『衝突する宇宙』の数ページにわたり、主に紀元前8世紀に起こったと記述されている…… 大気中にあるにもかかわらず地形が鋭い輪郭を保っていることは、その形成が比較的最近であることを示している」
ヴェリコフスキーが十数年にわたり、世界中の放射性炭素測定研究所にエジプト新王国の遺物を検査するよう働きかけた努力が、初めて実を結んだ。検査結果はヴェリコフスキーの年代学と一致し、従来の年代体系とは全く相容れないものである。
1963年、ツタンカーメン王の墓から採取された三つの小さな木片がペンシルベニア大学博物館の放射性炭素研究所に届けられた。研究所所長のエリザベス・K・ラルフ博士が三つのサンプル(総量26グラム)を用いて試験を実施した。イェール大学刊行の『放射性炭素年代測定Radiocarbon』(1965年)において、彼女はリビーの放射性炭素半減期推定に基づく年代が紀元前1030年±50年(ワシントンの半減期推定では紀元前1120年±52年)であると報告している。
これらの年代は、ツタンカーメンを14世紀(※公式には紀元前1327年頃とされている)に位置づける通説の年代学とは明らかに矛盾する。ヴェリコフスキーは彼を9世紀に置いている。この試験結果はヴェリコフスキーの年代学を否定しない。なぜなら木製物体中の放射性炭素は、木材の細胞が活発に成長していた時期を示すからである。丸太の外側部分の木材のみが伐採時期に近い年代を示す。一方、丸太の中心部から採取した木材は、数百年前という古い年代を示すことがある。今回検査された木材のほぼ半分はレバノン杉だった。この樹種は長寿で知られ、通常は若木として伐採されることはない。したがって、紀元前1030年(あるいは1120年)頃に成長した心材が、ツタンカーメンの遺品を作るために9世紀に伐採された可能性はある。しかし、彼の死後数世紀を経て成長した木材が、14世紀のファラオの遺品に使われた可能性はない。
この種の単一の試験に基づいて、確固たる結論を導き出すことはできない。しかしおそらく今、ヴェリコフスキーが年代学に異議を唱えた13世紀において、緊急に必要とされる、さらなる試験への扉が開かれた。これまで、この歴史の全期間が、放射性炭素年代測定プログラムから除外されてきたのである。
1950年代に展開された極めて成功した中傷キャンペーンにより、ヴェリコフスキーの名は新聞や大衆誌の編集者や科学ライターの間で忌み嫌われる存在となった。この状況は今なお大きく変わっていない。しかし、1963年8月の『ハーパーズ』誌に掲載されたララビーの記事と、同年9月の『アメリカ行動科学者』誌の特集号は、学術界や大学キャンパスで発酵プロセスを引き起こした。この動きは、現在に至るまで一般メディアにも科学メディアにも反映されていない。学生や若手教授たちは、ヴェリコフスキーの理論が持つ含意と、それらが科学界で受け入れられなかった理由を理解したいという願望を表明し始めている。
シドニーでオーストラリア文化自由協会が発行した『クアドラントQuadrant』誌1964年10月-11月号には、シドニー大学哲学上級講師デイヴィッド・ストーヴによる10ページに及ぶ論文「衝突するヴェリコフスキー Velikovsky in Collision」が掲載された。
ストーヴはヴェリコフスキーの全著作で提示された証拠に対し客観的な批判を展開する:「……ヴェリコフスキー理論の最も顕著な証拠は依然として歴史的証拠である。地球は、少なくとも私の耳には、彼に対して非常に曖昧な言葉で語りかけた…… では、天界はどうなのか? ……宵の明星(金星)そのものが、ヴェリコフスキーの二つの事前にはありえない予測に対して、聞こえるほど驚くべき “イエス" という答えを返した……[この証拠の重み]を過大評価すべきではない…… しかし、これら二つの確認が[全体の主張]の確率を、これまでの証拠の光の中で持っていた値より実質的に引き上げていることを否定できるとは思えない。そしてこれは決して無視できるものではなかった」
ストーヴは『衝突する宇宙』に対する天文学者たちの激しい反発を、ヴェリコフスキーの力強い指摘に帰する。「天文学は理論科学ではなく、自然史の一分野であるということ…… 太陽系の歴史に波乱がないという前提は、天文学者たちが暗黙のうちに依存してきたが、決して正当化されるべきものではなかった。彼らが熟知していた家屋に、この扉があることに気づかなかったのだ。そしてヴェリコフスキーは世界で最も腹立たしいことをした。見知らぬ彼が、この開かれた扉をくぐった…… 我々は、地球が中心ではないばかりか、静止しているわけでもなく、安全ですらないと初めて示唆した人物に対し、最高の称賛を惜しむべきではない」
注釈(「『衝突する宇宙』出版後の波紋」で引用した参考文献)
1. オーストラリアの電波天文学者、グロート・レーバーは、サイエンス誌(第140巻、1 ページ、362ページ)への手紙の中で、ヴェリコフスキーの地球の遠方磁場に関する予測は「その場限りの推測の性質が強い」と非難した。この主張の根拠は、SF作家ポール・アンダーソン(Science Vol. 139, p. 671)である。アンダーソンは、バーグマンとモッツの書簡(『サイエンス』誌第138巻、1 ページ、350 ページ)について、幼稚で冗談めいたコメントを寄せ、編集長フィリップ・アベルソンの興味を引いた。1955年に、地球の大気には円盤状の赤道付近の膨らみ(まだ発見されていない)があると予測したことを基に、レーバーは磁気圏を事前に予測したと主張している。これがどのように導き出されたのかは明らかではない。
2. アメリカ自然史博物館の化石学キュレーターであり、コロンビア大学古生物学教授であるノーマル・D・ニューウェルは、1963年2月号の『サイエンティフィック・アメリカン』誌で “漸進的" 天変地異説の理論を提唱した。ここでヴェリコフスキーの名が、まるで編集後入れられたかのようにチャールズ・ハプグッド(『地球の移動する地殻』著者)と共に登場し、両者は「歴史的証拠がほとんど、あるいは全くないのに、架空の天変地異を提唱し続ける」作家として例示されている。このヴェリコフスキー言及のタイミングは、『サイエンス』誌掲載のバーグマン=モッツ書簡がきっかけとなった可能性を示唆している。
──つづく
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
































