「愛」を特別なことにしないでください
あらたまって「愛」とか「真実の愛」とか言われると、ちょっと日常生活からかけ離れた特別の概念のような気がする時がありませんか?
「愛」を感じてくださいとか「真実の愛」を追求してくださいとか言われても、
そもそも「愛」って何?
それって特別な何か?
感じるためには何か特別なことをしなくてはいけないの?
それがわかるためにはなにか特別な存在にならなくてはいけないの?
それとも誰か「わかっている人」に教えてもらわなければわからないもの?
努力すれば手に入れられるもの?
それってどこにあるの?
わたしたちにはとうてい理解できない崇高な概念?
そんなふうに疑問に思ったことってありませんか?
考えれば考えるほど凡人?の私たちにとっては、いくら手を伸ばしてもつかめない永遠に手に届かない崇高な「なにか」のように感じられてきます。
そして考え疲れて、ま、いいか、と言って、あきらめ、いつしか思い悩んだことも忘れて忘却の彼方なのかもしれません。
愛って特別なものなのでしょうか?
なにか特別なことをしなくては手に入らないものなのでしょうか?
赤ちゃんを見たとき、ちっちゃな子猫や子犬を見たとき何を感じますか?
きっと「かわいい」って感じると思います。思わずなでたり抱いてみたくなったりします。愛しい感覚。こころ休まる感覚。こころがあたたまってきます。こころが静まります。
このとき感じる感覚はなんですか?
この感覚になんという名前をつけますか?
この感覚と「愛」はどういう関係ですか?
どう結びついていますか?
この感覚を無視して「真実の愛」を追求していませんか?
わたしたちはカンとか直感とか見えない何かを感じたとき、見えないエネルギーを感じたとき、微妙で繊細な感覚なので気のせいかなと思い無視しがちです。
でもこの瞬間に立ち止まってサインを受け止めてみてください。それは肌で感じた何かかもしれません。鼻で感じた遠い記憶を呼び覚ますような匂いかもしれません。味覚で感じた亡くなった母の味かもしれません。耳に不意に聞こえてきた懐かしい音かもしれません。あるいは第六感と言われるものかもしれません。
それがなんであれ、忙しい毎日を送っているわたしたちにとって取るに足らない価値のない情報ー触覚、嗅覚、味覚、聴覚、視覚、第六感ーとして捨て去っているのかもしれません。
そしてわたしたちはこの微妙で繊細な感覚を無視して特別な何かを求めているのかもしれません。
「愛」も同様で、赤ちゃんやかわいい子猫や子犬を見たときに感じた感覚を無視して「崇高であるべき、あるはずの愛」を求めているのかもしれません。
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