自分とはいったい、なに? 雑念と意識
3回シリーズです。
助けられることに抵抗ありませんか?
問題に直面したときや困ったことがあったとき、素直に人に助けを求められますか?
人に頼み事をするとき、何のてらいもなく自然にできますか?
助けてもらったり頼み事をしたいとき、なにか抵抗する気持ちが湧いてきませんか?
もう少し自分で頑張ってみてと思い先延ばしにしていますか?
それでもうまく行かなくて自分ではどうしようもなくなったときにやっと助けを求めていますか?
どうでしょう?
人に頼み事をしたり助けてもらうのは苦手だという人は多いのではないでしょうか? なんの抵抗もなくちゃっかり?助けてもらうのは平気だという人は少数派かもしれません。
抵抗感や苦手意識の正体
人に頼み事をしたり助けてもらおうとするときに出てくる抵抗感や苦手意識とは何でしょうか?
頼み事をしたり助けてもらうと・・・
人に弱みを見せてしまう感じがする
借りを作ってしまった感じがする
なにかお返しをしなくては思う
あれやこれやで面倒なので止めておこうと思ってしまう
人に頭を下げるのが嫌だ
貸し借りが嫌だ
頼まれた人にとって迷惑かもしれないと思う
過去に迷惑をかけてしまったことがある
自分の都合で利用してる感じがする
簡単に人に頼ってはいけないという思いがある
自力でやるべきだ
プライドが許さない
頼めそうな人がいない
いろいろ事情があると思いますが、一言で言ってしまえば、新たに問題を作ってしまいそうだという恐れです。
頼み事をしたいときや助けてもらおうとするときは不安をベースに物事を考えているので恐れが出てくるのは当然といえば当然かも知れません。
助けを求める相手は他人ではなく自分?
ですが外側に求めるのではなく内側に求めるとしたらどうでしょうか?
助けを求める相手が外ではなく内側にあるとすればどうでしょうか?
外側に求めないのであれば、不安をベースにした恐れや不安が軽くなったり無くなるかもしれません。
では、内側と言ったとき何をイメージしますか?
自分そのもの?
こころ?
さて?
ハイヤーセルフ?
高次の存在?
スピリット、魂?
スピリチュアルなガイド?
守護天使? 、、、
そもそも内側ってなに?
スピリチュアルな存在を信じコミュニケーションできる人にとってはことは簡単かもしれません。ですがそういった存在があることは知っているし信じてもいるけれど頼み方がわからない。どうコミュニケーションしていいのか知らないという人にとってはどうでしょうか?
さらに目に見えないものは信じない。そんな存在がいるわけがないと否定している人にとってはどうでしょうか?
内側といっても結局自分でしょってことになります。
自分とはいったい何?
では自分とはいったい何でしょうか?
いろんなことを考えている自分?
感情を感じている自分?
それとも体?
全部合わせたもの?
全部を合わせたものと考えるのが普通かもしれません。
とすれば、
頭の中に勝手に浮かぶ考えやイメージは何なのでしょうか?
自分の意志とは無関係に浮かんできてはいませんか?
わたしたちは四六時中まわりのものに五感が刺激され、絶えず何かが頭の中に浮かんできています。何もなく静かにしているときでさえ脈絡のない思いや考え=雑念がクラゲのように頭の中にポッ、ポッと浮かんでは消えていきます。
これが普通なのかもしれません。僕もよく浮かんできます。無意識に過去の事などがなんの脈絡もなしに浮かんできて、そのことについて考えていて、あれ何でこんなこと考えてるんだろうって気が付くことがあります。楽しい事ならまだしも知らぬ間に悩んでいたりしたとしたら嫌ですよね。
では、このような雑念は止めることができるのでしょうか?
考えている自分が自分のはずなのになぜ止めることができないのでしょう?
同じように嬉しさや悲しさといった感情を自分の意志で感じ始めたり、いきなりストップさせたりすることはなかなかできません。身近な人に不幸があったり亡くなったとき湧いてくる感情を止めることはできません。笑えるような場面で笑いを押し殺すのも難しいです。
体も手足や体は動かせても、胃の消化をやめるとか内分泌器官に命じてホルモンを出させることなどできません。意識で血圧を下げるとか普通はできません。
意識している自分
ですがそれらを観察している自分がいます。
あ、今、こんな考えが浮かんできたなとか、何故かわけもなく寂しくなったり悲しくなってる自分がいるなとか、体のどこかが痛いなと気づいている自分がいます。それらを意識している自分がいます。
この「意識」が自分ではないでしょうか?
臨死体験で一度なくなった人が死後の世界を経験して戻ってきたという不思議な話は耳にしたことがあると思います。つまり死後も意識はあるということの証明ではないでしょうか? 意識はエネルギーです。肉体がなくなっても意識はエネルギーとしてどこかにあります。
話を戻します。
つまり「意識」と「思考、感情、体」は渾然一体となっているようでいて別なのです。
コントロールすると思い通りにならない
では「思考、感情、体」が自分ではないとしたら、あなたの意識はこの思考、感情、体をどう扱っていますか?
考えやすくするためにこの思考、感情、体を別々の人格だとしましょう。
体の声に耳を傾けていますか?
体が疲れていたり、どこか具合が悪かったり不調なとき、いたわっていますか?
休息をとったり体にとって必要な配慮をしてあげていますか?
疲れた体に鞭打ってハードワークを強いていませんか?
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心の声に耳を傾けていますか?
なにかに動揺して感情が悲鳴を上げているとき受け止めてあげていますか?
それともこんなこと何でもないって強がりをいって無視していますか?
いつも同じようなことを考えていませんか?
とめどなく湧いてくる考えに翻弄され支配されていませんか?
ポジティブで気持ちがいい雑念ならまだしも、ネガティブな雑念に振り回されてクタクタに頭が疲れていませんか?
こんなこともう考えたくないと思っていても、いつのまにか考えていたりしませんか?
つまり体に鞭打つのも感情や思考にふたをするのも思考・感情・体に支配されるのもコントロールしコントロールされているのです。わたしたちはそれらを無意識にやっています。当たり前であるがごとく。
コントロールされるのは嫌
対人関係で相手を自分の都合でコントロールしようとしたら何が起きるでしょうか?
相手はコントロールされたくないので距離をおき離れていきます。
では、あなたの「意識」と「思考、感情、体」君との間では何が起きているでしょうか?
耳を傾けていなければ、きっと「思考、感情、体」君はそっぽを向いているでしょうね。コントロールされるのは嫌だから。とするとあなたという「意識」がこうしたいと思っていても「思考、感情、体」君はどこか別の方向を向いているかもしれません。だとすれば道理で自分の思い通りにならないはずです。
それぞれが別々の方向を向いていたらチームワークどころの話ではありません。進みたい方向に進むのにとてつもない労力が必要になります。チームワークが取れていればいとも簡単にできることが、それぞれがバラバラだとまとめるのに大変な労力が必要になってしまいます。人生で疲れを感じるのも無理もありません。
障害となっているもの
何が障害になっているのでしょうか?
それはコントロールの存在です。
わたしたちは自分の人生や自分の思考、感情、身体をコントロールできていると思えなければ不安を感じてしまうものです。ですが現実は願望の実現も含めて完璧にコントロールできている人は少ないかもしれません。逆に翻弄されコントロールされているのが実情ではないでしょうか。
ではなぜ現実にはうまくいかないのにコントロールしたがるのでしょうか?
さらにハイヤーセルフや高次の存在と言われるものまでも知らず知らずのうちにコントロールの対象としていたとしたらどうでしょうか?
いい関係が築けるでしょうか?
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回に続きます