罪悪感にどう対処しますか?
神様、罰しないでください。私が自分で罰しますから
人間関係でつまずいたり何かでミスをしたりすると罪悪感を感じてしまいがちです。
ですが罪悪感は自分を罰する行為です。罰することで罪を軽くしようとしますが、そうは問屋が卸しません。しかも罰する相手は自分だけとは限りません。そのうえ終わりがありません。
罪悪感のせいで自分を攻撃したり罰を与えていませんか? ときには人を使って罰を与えてもらおうとすることさえしていませんか。そして「神様、罰しないでください。私が自分で罰しますから」といって自らすすんで償おうとします。罰することで罪を償おうとしているのに、堂々巡りの迷路に入って一歩も進めなくなります。どこまで償えば気が済むのでしょうか。
そうなると過去のミスや失敗が気になって気になって動けなくなります。間違いを正そうと何度も考え、なんとかしようと試みますが、かえって同じような間違いを引き寄せてしまい、逆に問題を大きくして、より罪悪感を強めてしまいます。
文字通り、その問題に釘付けになります。
どうして、こんなことに?
子どもだった時のことを思い出してみてください。
学校で何か悪いことをして、廊下に立たされたり、家でいたずらをして、親に遊んでいたものを取り上げられたりした経験は誰しも持っています。罰を受けて、その場では償ったつもりになります。しかし、懲りずにまた似たようないたずらをしてしまいます。
罪悪感もこれといっしょで、償ったつもりがまた同じような間違いをおかしてしまいます。そしてまた、自らを罪悪感で責め、償い、間違いを犯し、さらなる罪悪感を感じ、責め、、、と延々と続きます。罪悪感とは終わりのない償いです。
罪悪感で罰するということは、実はそこから抜け出せなくなるということです。
もし子どものときに、なにか間違いや失敗をするたびに自分を罰していたら、そこで罪悪感を感じていたら、あたりまえのこと、例えば、歩くことさえできなくなってしまっていたと思いませんか?
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考えれば解決できる。それは幻想です。
間違いや失敗をしたとき、ただ訂正すればいいだけなのです。
そこから、教訓を学べば、いい経験となり、知恵になっていきます。間違いや失敗から学んで、次に生かすようにする、ただそれだけのことをすればよいだけです。
ところが、罪悪感は学ぶことが嫌です。学ぶよりは罰する方を選びます。これでは何回も同じような失敗をするのも無理はありません。
罪悪感のネガティブな蟻地獄から抜け出すには、罪悪感を拒絶して学ぶことを選択するだけです。そこに学ぼうとする意欲と意志があればよいのです。
なんだか肩透かしのような簡単なことなのに、罪悪感にはまると、この簡単なことがわかりません。エゴが仕掛ける罠は巧妙です。
エゴは考えればなにか解決できると思っています。しかし、エゴが作った問題ですから、エゴでは解決できません。泥棒に泥棒を捕まえてくれと言っているようなものです。私たちは考えればなにかが解決できると思っていますが、悩みに関してはそれは幻想です。
何か問題が起きると、調べたり、いろんな人の話を聞いたり、情報を得ようとします。知識で頭はパンパンになります。バラバラの知識ですから筋が通りません。それぞれが矛盾していたりします。
その上、知らないことのほうが多いです。そうするとまた、新たな疑問が湧いてきます。きりがありません。
私たちは突き詰めて考えれば解決できるはずだという幻想を持っています。
腑に落ちる
腑に落ちるという言葉があります。
考えて解決したと思っても、しばらくするとまた疑問が出てきます。いつまでたっても、腑に落ちません。
腑に落ちるというのは理屈ではありません。感じること、心とつながっていなければ納得できません。ですから、頭で考えるより心で感じること、ひらめきや直感を優先した方が深いところで納得できます。
罪悪感にはまって時間を無駄にしないでください。
最後までお読みいただきありがとうございました。