認められたい気持ちが自分を追い詰めていた

これまで私個人のことについてほとんど触れてきませんでした。今回は自分自身のことについて書いてみようと思います。

「認められたい」という気持ちは誰でも持っている欲求です。もちろん私の中にもあります。ところが普段はそのことについて見向きもしてきませんでした。ソースオブライトという大高さんのセッションを受けたことがきっかけで、認めてほしいという気持を満たしてこなかったことに最近になってやっと気が付きました。これ私にとっては「死角」でした。そういう欲求があるということさえ自分では気が付かなかったのです。

あまりに日常的過ぎて、ごく自然で、自動的で、当たり前すぎて、認めてほしいという気持を満たしてこなかった自分が見えませんでした。

窓の外にはなにもない

「認められたい」という気持ちが隠れていると、認められるために何かを証明したくなります。自分って凄いんだぞって言える何かを。一方でそんな「自慢話」のたぐいは顰蹙を買うことが分かっているので人前では出してはいけないという「常識」も持ち合わせています。だから人には見せません。ところが頭の中では終わりのない「自慢ストーリー」がグルグル回っているのに、私の中にもある認められたい気持ちをずっと無視していました。お馬鹿さんですね~。

「認められたい」という動機があって、認められるために何かを証明したくなる気持ちがベースにあると、自分がしている行為はやたらと「重く」なってしまいます。頑張っても頑張ってもそう簡単には認められはしないので疲れます。大抵が徒労に終ったというふうにしか思えません。その結果を見て、まだ努力が足りないのかなと思い、なおさら頑張ろうとします。そうやって自分で自分を追い詰めていました。そこで誰かに評価されたとしても、自分には価値がないという思いが一方にあるので受け取れません。ガソリンのない自動車を動かないので手で押していたようなものです。

 

成果は出しているのに、何も得られなかったという思いだけが積み重なっていく。こんなことを延々と繰り返していた自分にようやく気が付きました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

Posted by kiyo.I