アウシュビッツを解放したソ連の英雄を忘れてはならない

ナチの恐怖は今も続いている

ウクライナ東部のドンバス地方のロシア語を話す住民を救うための特別軍事作戦が始まって1年になろうとしています。メディアのデタラメな報道によって、ロシアが侵略したと思い込んでいる人が大半のようですが、少なくともアメリカのネオコンが仕掛けた2014年のウクライナのマイダンクーデターの頃から、ネオナチによるロシア語話者の虐殺から始まっていました。
▼あの嘘ニュースで定評のあるCNNでさえ、2014年当時は真っ当な報道をしていました。

CNN – 2014年9月ドネツクでウクライナの砲撃の被害者にインタビュー

この戦争の推移を見ていると、第二次世界大戦で当時のソ連がナチスドイツを倒した戦いの再来のような気がしてなりません。しかし、当時とは力関係が全く逆転しています。西側諸国はロシアに対して制裁を課し、ウクライナに莫大な武器やお金をつぎ込んでいますが、敗北は時間の問題です。あとは、どういう負け方をするかだけです。

ロシアが戦っている相手はNATO諸国、とりわけネオナチです。ゼレンスキーを支援している欧米の指導者の発言を聞いていると、この人たちはナチス思想かと思わざるを得ません。欧米のナチス化については「EUは骨の髄までファシスト」で書きました。つまり、ロシアは民主主義の顔をしたファシズム体制(=世界統一政府構想)と戦っているのです。日本の自民党統一教会政府もこのファシズム体制に参加していることは言うまでもありません。

欧米諸国では政府のウクライナ支援に対して抗議運動が盛んです。世界全体を見るとインド、中国を始めアラブ諸国、南米、アフリカの国々はロシアを支持しています。知らないのは日本人だけかもしれません。何が起きているのか、まったく気がついていない人が大半です。

とりわけ第二次世界大戦でドイツを降伏させたのはアメリカだと思い違いしている方が多いです。今年1月27日、ソ連軍によるアウシュビッツ収容所の解放から78周年を迎えるにあたって、ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ博物館は解放記念式典へのロシアの参加を禁止しました。このことについて、スコット・リッター氏は「解放記念式典へのロシアの参加を禁止する決定を下したことは、深く憂慮すべきこと」だと言います。一番の恩人を招待しないのですから。

アウシュビッツを解放したソ連の英雄を忘れてはならない

Never Forget the Soviet Heroes Who Liberated Auschwitz
11:24 GMT 27.01.2023
Scott Ritter, Columnist

アウシュビッツ, photo © Sputnik
photo © Sputnik

1945年1月20日から21日の夜、SSの衛兵はアウシュビッツを囲む守備隊を放棄した

1944年夏の最盛期には、アウシュヴィッツ複合施設は、本収容所、ビルケナウ、モノヴィッツの三つの基本収容所とさらに40の小収容所からなり、ユダヤ人を中心とする登録囚人105,000人以上、いわゆる通過収容所の未登録ユダヤ人収容者約30000人を収容していた。

1945年1月20日までに残った囚人は約9,000人であった。撤退後の数日間、SS(ナチス党の黒い制服を着たエリート部隊、自称「政治的兵士」)の看守は収容所を巡回し、400人の囚人を射殺し、さらに300人を兵舎で生きたまま焼き殺した。1月25日、SSはビルケナウから約150人の囚人を集め、収容所から連行した。翌日、SSはいくつかの倉庫を爆破し、この施設を完全に放棄した。

SS:親衛隊員は、人種的憎悪を教育され、人間の苦しみに対して無感覚になるように戒められた。彼らの最大の”美徳”は、総統への絶対的な服従と忠誠心であり、総統は彼らに「汝の名誉は汝の忠誠心である」というモットーを与えている。第二次世界大戦中、SSは政敵、ロマ(ジプシー)、ユダヤ人、ポーランド人指導者、共産主義者当局、パルチザン抵抗者、ロシア軍捕虜の大量処刑を行った。連合国によるナチスドイツの敗北後、SSは1946年にニュルンベルクの連合国法廷によって犯罪組織と認定された

生き残った囚人のほとんどは、飢えと病気で、死に瀕していた。収容所の医療スタッフは、健康な囚人の助けを借りて、寝たきりの患者の世話をするために最善を尽くした。収容所は、冬の嵐に見舞われ、気温は零下、周囲には雪が積もっていた。生存者たちは、必要以上に動き回ることを恐れていた。──ドイツ正規軍は、前進するソ連軍を前に後退し、収容所内を略奪しながら進み、誰もがSSの帰還を恐れていた。

アウシュビッツは、1940年からポーランド人捕虜の強制収容所として使用されていた。1942年になると、収容所は労働と殺戮を組み合わせた施設に変わり、ユダヤ人捕虜が大量に収容されるようになった。1940年から1945年の間にアウシュビッツで亡くなった人は約110万人で、そのうち100万人はユダヤ人、残りはポーランド人(約7万5,000人)、ジプシー(約2万人)、ソ連軍捕虜(約1万5,000人)、その他1万~1万5,000人の異なる民族であると歴史家は推定している。

しかし、前進するソ連軍の兵士はアウシュビッツの存在を知らなかった。彼らにとっては、死の収容所は前進計画を立てるための地図に”兵舎”と記されているだけだった。収容所から西に45キロ離れたポーランドの都市クラクフを解放したばかりのクロフキン将軍の第60軍は、1月25日から敗走するドイツ軍を追跡し始めた。彼らの目標は、アウシュビッツの北西約25マイルにある工業都市カトヴィツェの奪取であった。

第60軍を構成する第107、100、322師団のソ連歩兵は、膝までの雪を踏みしめながら、道中で塹壕に潜んでいたドイツ軍と戦闘を繰り返した。1月27日朝、第107師団がアウシュビッツ収容所に隣接するポーランド北端の町オシフィエンチムを迂回している間に、第100師団の部隊は、オシフィエチムの東3マイルにあるモノヴィッツ収容所に入った。収容所に最初に入ったソ連兵は、自分たちが何をしに来たのか分からなかったと、捕虜の一人プリモ・レヴィは回想している。

「彼らは挨拶もしなければ、笑顔もなかった」レヴィはこう回想した。
「彼らは哀れみだけでなく、混乱した自制心で気が滅入り、葬儀の光景に口を封じ、目を閉ざしているように見えた」

第100師団の左側には、歩兵第472連隊を先頭とする第322師団の部隊が控えていた。ソラ川を渡り、オシフィエチムに到着した472連隊は、ドイツ軍守備隊の軽い抵抗を掃討し、西の鉄道駅方面へと進撃した。ここでドイツ軍の抵抗が強まり、ソ連軍は塹壕のドイツ軍の撃退に苦労することになった。ドイツ軍が全滅するか退却すると、ソ連軍は斥候を送って進路を探しながら前進を再開した。

ソ連兵の一人、イワン・マルティヌシキン少尉は、オシフィエチム※1でドイツ軍を撃退した後、村を抜けると「電気が流れている有刺鉄線フェンスと監視塔に完全に囲まれた広大な原っぱのようなところに出た」と回想している。

※1「彼らの目には幸せが映っていた」。ロシアの退役軍人、ソ連のアウシュビッツ解放を回想する

「鉄条網の向こうに建物が見えた」とマルティヌシキンが報告している。

「そして、近づくにつれ、人がいるのが見えてきた」
マルティヌシキンたちは「非常に痩せていて、疲れていて、肌が黒ずんでいる」ように見えるこの人たちが誰なのか、見当もつかなかった。

「最初は、我々も彼らも警戒していた」と彼は回想した。
「しかし、彼らはどうやら私たちが誰であるかを理解し、私たちを歓迎し始め、私たちが誰であるかを知っていて、彼らを恐れてはいけないという合図をした。──鉄条網の向こうには看守もドイツ兵もいない。囚人だけだ」

マルティヌシキンたちは、ビルケナウ収容所を解放したばかりだった。

収容所の医療施設で働くロシア人囚人アンナ・ポルシコワは、ソ連兵を見た時の喜びと、彼らの戸惑いをこう振り返った。

彼らは驚きと狼狽の表情で私たちを見ていました。
「お前たちは誰だ?」彼らは尋ねました。
「ここは何なんだ?」
「私たちはロシア人です。ここはアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所です」と私は答えました。
「で、ここで何をしているのか?」と、彼らはよそよそしく尋ねました。私たちは困惑し、何を言っていいのか分かりませんでした。私たちはひどくみすぼらしく哀れを誘う顔をしていたので、彼らはふびんに思い、優しい口調でもう一度尋ねました。彼らは北を指さして
「あそこには何があるんですか?」と言いました。
「あれも強制収容所よ」
「その向こうは?」
「同じ収容所」
「収容所の向こうは?」
「向こうの、森の中に、火葬場があります。火葬場の向こうは、わからないわ」

ソ連の解放者たちは、このとき初めて、自分たちが発見した現実の恐ろしさを知ったのである。

アウシュビッツ本収容所 Auschwitz main camp、ビルケナウ、モノヴィッツには、約7,000人のやせ細った囚人がいた。さらに500人の囚人が、スタラ・クジニア、ブラホニア・シロンスカ、シフィエントフウォヴィツェ、ヴェソワ、リビアンス、ヤヴィショヴィツェ、ヤヴォジュノのアウシュヴィッツ小収容所 sub-camps で発見された。

しかし、収容所内でソ連軍が発見したのは、120万枚の衣類、7.7トンの人毛など、殺害された囚人から剥ぎ取られた身の回り品であり、そこで行われた惨劇の証拠である。敷地内には600体以上の腐乱死体が散乱しており、これは収容所を放棄する前に、殺人的なSS看守によって銃殺された囚人たちの死体だった。

しかし、この悪夢の中で、ソ連兵の人間性が透けて見えてくる。ナチスのヨーゼフ・メンゲレ博士の発狂した医学実験の生き残りである10歳のエヴァ・モーゼス・コールは、ソビエト軍が収容所の子供たちに見せた優しさを思い出している。

「ハグしてくれたり、クッキーやチョコレートをくれたりした」と彼女は語った。
「孤独な私たちにとって、ハグは想像以上に大きな意味を持ち、それは飢えに苦しむ私たちの人間的価値に取って代わるものでした。食べ物に飢えていただけでなく、人間的な優しさにも飢えていたのです。ソ連軍はそのいくつかを提供してくれました」

アウシュビッツ解放の際、オシフィエンチムの町とその周辺での戦闘で、472連隊長シーメン・ルボビッチ・ベスプロツバニ大佐を含む231名のソ連兵が命を落とした。彼らの遺体はオシフィエンチム市営墓地に埋葬され、アウシュビッツ死のキャンプの生き残り7,500人の解放のために払われた犠牲を永久に思い起こさせるものとなっている。

2023年1月27日、アウシュビッツ・ビルケナウ博物館は、ソ連軍によるアウシュビッツ収容所の解放から78周年を迎える。しかし、今年はロシアは招待されない。
「自由で独立したウクライナへの攻撃のため」と、博物館の報道担当者であるパヴェル・サウィッキはメディアに語った
「ロシア連邦の代表は、今年のアウシュビッツ解放記念イベントに招待されていない」

この決定に対して、ロシア外務省の報道官マリア・ザハロワが非難し、彼女のテレグラムチャンネルに次のような返答を投稿した。
我々のヨーロッパの”非パートナー”がいかに歴史を新しく書き換えようと工夫しても、ソ連の英雄解放者とナチの恐怖の記憶は消し去ることはできない

ロシア軍は今日、ウクライナ国内でナチスドイツの殺人親衛隊の看守の子孫と生死をかけた闘いを行っていることを考えると、アウシュビッツ・ビルケナウ博物館が解放記念式典へのロシアの参加を禁止する決定を下したことは、深く憂慮すべきことである。
エヴァ・モーゼス・コール、アンナ・ポルシチコヴァ、プリモ・レヴィをはじめ、収容所解放のための戦闘で犠牲になったベスプロツバニ大佐と他のソ連兵によって命を救われた約7500人の生存者の子孫は、先祖があの言いようのない恐怖から生き延びることができたのが誰なのか、決して忘れることはないだろう。

アウシュビッツ・ビルケナウ博物館が、ソ連のアウシュビッツ解放78周年記念行事において、ロシアの代表者がアウシュビッツの救世主としての正当な役割を果たすことを否定したことは、忌むべきことである。しかし、パヴェル・サウィッキとアウシュビッツ・ビルケナウ博物館のスタッフは、どんなに頑張っても歴史を消し去ることはできない。

“決して忘れるな Never forget“という言葉には意味がある。
このマントラが、もはやアウシュビッツ・ビルケナウ博物館に響かないのは残念なことである。

──おわり

アウシュビッツ収容所群:地図

AUSCHWITZ CAMP COMPLEX: MAPS

アウシュビッツ、地図
アウシュビッツ、地図
殺戮センターへの主な移送、1942-1944年
アウシュビッツ、地図
アウシュビッツ周辺、1944年夏

AUSCHWITZ ENVIRONS, SUMMER 1944
アウシュビッツ周辺、1944年夏
アウシュビッツは、ドイツ軍が設立した最大の収容所である。強制収容所、絶滅収容所、強制労働収容所からなる複合収容所である。1939年にドイツに併合された東部アッパーシレジアの戦前のドイツとポーランドの国境に近いオシフィエンチムという町にあった。
アウシュビッツⅠは、オシフィエンチムの主要収容所であり、最初に設立された収容所である。アウシュビッツⅡ(ビルケナウ)は、アウシュビッツの殺戮センターであった。アウシュビッツ・ビルケナウには、ドイツに占領されたヨーロッパのほぼすべての国からユダヤ人の輸送列車がほぼ毎日到着していた。
アウシュビッツⅢはブナまたはモノヴィッツとも呼ばれ、I.G.ファルベン工場など近隣の工場に強制労働者を供給するためにモノヴィッツに設立された。
アウシュビッツでは、少なくとも110万人のユダヤ人が殺害された。その他の犠牲者は、70,000人から75,000人のポーランド人、21,000人のロマ人、約15,000人のソ連人捕虜などだ。

アウシュビッツⅠ収容所、1944年
  1. 収容所司令官の家
  2. 衛兵詰め所
  3. 収容所管理事務所
  4. ゲシュタポ
  5. 受付棟/囚人登録
  6. キッチン
  7. ガス室と火葬場
  8. 貯蔵所と作業場
  9. 没収品の保管場所
  10. 砂利採取場:処刑場
  11. 収容所オーケストラサイト
  12. ”黒い壁”処刑場
  13. 第11ブロック:懲罰用バンカー
  14. 第10ブロック:医療実験場
  15. 絞首台
  16. ブロック司令官の兵舎
  17. SS病院

詳細な資料が「ホロコースト論争」に掲載されています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

Posted by kiyo.I