「自分には価値がない」の落とし穴
あなたの価値はあなたの中にすでにあります。でもこれまでと同じ見方考え方をしていては見つかりません。別のとらえ方、見方にこころを開いてみませんか?
「自分には価値がない」と本気で信じたいですか?
「自分には価値がない」
本気でそう思っていますか?
そう思いたいですか?
この質問であなたの中に最初に浮かんだものは何でしたか?
浮かんだものが真実です。
「価値があると信じたい」でしたか?
ですが、とても疲れ果て希望を失っているとき、その通り「価値がない」って思うかもしれません。でも心のどこかに価値があることを信じたい気持ちが隠れているはずです。
頑張っても、いくらやっても報われない。そんな状態が続いていたら「自分には価値がない」と心のどこかで思ってしまい、その思いがより一層強化されます。
「自分には価値がない」どこかでそう思っていると、そのことを認めたくはないし感じたくないので、反対に「価値がある」ことを証明したくなります。そのため人を助けるために犠牲を払ったり、役に立つ人間と認められるために人一倍頑張ってしまいます。ところが、自分には「価値がない」とどこかで無意識に思っているので、たとえ褒められたとしても価値のない自分としては受け取ることができません。そして、次第に燃え尽きてしまいます。
報われないのはなぜ?
私もそんなことをしてきた人たちの中の一人でした。
というか今でも「価値のない自分」が見え隠れしています。本当は価値を認めてもらいたいくせに認めようとしない自分がいます。
完璧主義です。
ある程度の(本当はかなりの)レベルでないと認められない。
苦労しなければ幸せは掴む資格が無い。
自分なんか、、、
バカバカしいと思う反面、根深いところ(潜在意識、無意識)にその気持が居座っています。
だから、すべては徒労に終わるという気持ちに苛まれることがあります。
頑張ってやったことさえ認められないから、疲れ果てて何もする気にならなくなります。
そのたびに気を奮い立たせて。の連続です。
でも、どうしてそうなってしまうのか分からないので、イライラしてうっぷんを晴らしてみても結局のところ後悔と絶望感で終わるというパターンを繰り返していました。ただただ哀しいだけです。
ふと若い頃に読んだアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』という本を思い出しました。
内容は「神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった」(『ウィキペディア』より)
というものです。若い頃に読んだ本が今でも印象に残っているということは、、、根深いものがあります。
人の価値も認めていない自分に気づく
「自分には価値がない」と思っていると、人にも価値を置いていない自分に気づきます。無意識に当たり前であるかのように誰も認めていないし信用しきれない自分がいます。そう思ってみると家族という身近な存在にもそうしている自分を発見します。
自分がやらなければ誰もやってくれない。
誰もやらないから自分がやるしかない。
そういう観念、思い込みがとても強いです。
そして孤独な自分を「発見」します。
人より優れた自分、
勝ちたい自分、
認められたい自分、
勝ち誇った自分、
書いているのが嫌になるくらい傲慢な自分。
とうの昔に解決したと思っていたのに、、、。
そんな自分は卒業したと思っていたのに、、、。
こんなパターンがまだ隠れていたなんて。
でも気づいただけでもラッキーです。
心理的に表現すれば「自立」のステージです。
こんな自分を受け入れていくことから始めて行くしかないようです。
もう一つは奇妙に思えますが「自分には価値がない」としか思えないときは、反対に人に価値を与えることが抜け道のひとつです。
▼月星術があなたを簡単に窮地から救えるかもしれません
この「ものがたり」はいい人で頼れる人だと周囲から慕われたのに、なぜか次第に疲れ果ててしまった、そんな人のお話です。
「自分には価値がない」って本気で信じたいのだろうか?
Dさんはとてもよく働く人です。
周りの人たちからも、いい人、信頼できる人、頼りがいのある人として評判もよく、慕われていました。本人もそういう自分に満足していました。
誰かに「これ、やってもらえるかなぁ」とお願いされると、迷わず引き受けます。
「これ、できるかな?」と聞かれたら、したことがなくても、喜んで取り組んでいました。頼まれると断ることができないのです。頼まれなくても自分から進んでやってしまうような人です。
人の喜ぶ顔が見たい、誰かの役に立ちたい。それが生きがいでした。そんなことをず~っとしていると、いつしか、喜んでしていたものが義務であるかのようになっていました。
頼んだ人は、当然であるかのように思っているようですし、頼まれた自分も負担に感じることが増えてきました。自分の思いが空回りすることもあります。助けているはずなのに手ごたえを感じないのです。やってもやっても報われないと思うことすらあるようになってしまいました。
時には、我慢をすることがあっても頑張ってきたので、ちょっと疲れたかな? そう思いなおして、消耗した気持ちをずっと無視してきました。
あるとき、大切な人から折り入って相談を受けました。Dさんの頭の中を「できるかな?」という不安が浮かびます。でも、いつものDさんのこと、引き受けます。
ところが今回の頼まれごと、一筋縄ではいきません。
「引き受けなければよかった」ため息がでます。でも、信頼されているDさんは、持ち前の粘り強さと強い意志でなんとかやり遂げます。
ところが、努力したわりには満足感がありません。以前、感じていた満足感はどこに行ってしまったのだろうか? 報われない消耗した気持ちのほうがつよいのです。いつからこんな風に疲れるようになったのか? 自問自答する日々にも疲れ果て、Dさんは休養を取ることに決めました。
そういえば、ずっと休みらしい休みは取ってきませんでした。ちょっと遊ぼうか! 童心に帰ってなにか楽しいことをしよう! そんな時間を自分にご褒美として与えることにしました。
それがよかったようです。ゆっくりと自分を振り返る時間が持てました。
我慢してまで、何をしたかったのか? 何のために自分は人助けしようとしてきたのか? それで何が得られると思ってきたのか? そんな質問を自分自身に問いかけてみました。
すると、自分を「証明したかった」という思いや、自分には「価値がある」と思いたかった、自分は優れているということをまわりに見せたかった、そして、何よりも見返したかった。Dさんは、こんな気持ちが隠れていたことを見つけて驚きました。
そこには、自分はダメな人間だと思われたくないという気持ちが裏返しとしてありました。ということは、「自分には価値がない」と思っていたということ、でしょうか?
心の中にそんなに思いが眠っていたとは。にわかには信じがたい思いがしましたが、そう思って振り返ってみると、幼いころから褒められた記憶があまりありません。いつも「おまえはだめだ」とか「なんて馬鹿なんだ」とか否定的な言葉を多く聞いてきたような記憶があります。それを信じてしまって、そうは思いたくないので「自分だってできるんだ」って頑張ってきたような気がします。
頑張ってきたのですが、自分はダメだという思いや、悪いのは自分だという感覚が根っこにあるので、頑張っても、そのご褒美は受け取れないできたのです。これでは疲れて当然です。
「やってもやっても報われない」Dさんがこんな気持ちになってしまっていたのは「自分には価値がない」という思い込み。ここに原因があったことに気付きました。
あぁ、自分は「出来る自分」を演じてきたのかもしれない。演じていたから、すべてが「重荷」のように思えてきてしまって、本当の自分は置いてきぼりだったのかもしれない。
では、本当の自分はどこに行っちゃった? 真実の自分はどこに置いてきて忘れてしまったのでしょう? Dさんにとって、すぐには出ない答えのようです。
収穫はありました。
報われない気持ち、絶望感、この世には意味がないという思い、ときに、死にたくなるような気持ち。これまで訳も分からず浮かんでいた気持ちに押しつぶされそうになっていましたが、その訳がわかって対処する自信がついたことです。何よりも自分に無理をして犠牲を強いなくてよくなったことです。
Dさんの次の目標は「真実の自分」探しです。