誰かのせい? いいえ誰のせいでもありません
失敗したり、何か嫌なことがあると、自分や他人を責めてしまいがちです。
最初は自分以外のもののせいにして、それでも収まらないと、矛先は自分自身に向かいます。けれども決してスッキリすることはありません。しかし「責任を持つ」ことで、意外かもしれませんが、責めることや罪悪感を感じなくてすむようになります。
責めると責めたものにハマります。
「責任を持つ」ということは、責めを負わされるという意味ではありません。責任を取らされるといったニュアンスの「責任」ではありません。
傷ついたり、嫌な思いをしたり、その人は何も悪くはないのに不運な目にあうことも時にはあります。その不運の責任を取るという意味でもありません。
でも、実際のところ責任という言葉を重く考える人が多いです。
誰かや何かのせいにしたり、自分のせいにして誰かや自分を責めることは、不運の責任を誰かや自分に取らせていることです。その責任の矛先が誰かに向かえば、恨みつらみとなり、自分に向かえば、自己攻撃となります。足りないところ出来ないところばかり気にして、挙句の果てに問題を背負うことになります。
共通しているのは「責める」という事です。対象が何であれ、責めると責めたものにハマって動けなくなります。
犯人探しはしなくてもいい。誰も悪くない
「責任を持つ」ということは、誰のせいにもしないという事です。
誰のせいでもありません。ですから、責める必要もありません。責めなければ、問題から自由になれます。
そう思うことができれば、責めるという形で自分自身を攻撃しなくてすみます。本来の力を取り戻し、誰に対してもオープンでいれます。
自分に起きたことの究極の責任は自分にあります。
仮にトラウマとなってしまうような経験をしたとしても、それをどのような経験とするのかは選ぶことができます。悲しいつらい経験としていつまでも忘れられない傷とするのか、言い換えれば被害者として死ぬまで自分や誰かを責めるのか、それとも握りしめた傷を手放して真実を学ぶのか選ぶことができます。
この見方から起きたことを見直してみてください。辛いことだとしても、自ら選択したのだと思ってみて下さい。責任をもつことで初めて問題に対処することができます。そこで認めたくなかった何かに気付くはずです。その気づきが人生の流れをいい方向に変えます。
誰もが最善を尽くしている
誰も悪くないのです。誰もが最善を尽くしているという見方をしてみてください。すると人や自分自身のミスに寛容になれます。間違ったとしても、その時は出来る限りのことをしたのですから。
現在からその時のことを振り返ると足りなかったことや至らなかったことがあるかもしれません。間違っていたかもしれません。ですが、そのときはそのようにしかできなかったのです。他の方法を思いつかなかったのです。それは悔いることでも責めることでもありません。
ただ間違った選択をしてしまったのです。間違いが求めているのは正すことだけです。次に活かせればいいのです。犯人探しをする必要はありません。
問題に対処できる
人生で起きる事の究極の責任はその人本人にあります。何か問題があるとしたら、それはその人が作り出しているのです。自分が作り出しているという立場に立てたとき、初めて問題に対処できるようになります。そこから気付きが生まれます。