不幸を嘆き続けますか? それとも別の選択をしますか?
とあるニュースサイトでこんな記事が目に留まりました。
2014年パオラさんは、新年の夜酔っ払った運転手に轢かれた結果片足を失った。
足の4箇所が折れており、救助のあらゆる試みにもかかわらず、
医者は足の切断を余儀なくされた。パオラさんはうつに陥り、後悔を始める代わりにその状況を楽観主義的に見た。
パオラさんは次のように述べた。
「選択肢の中には、ずっと不幸でいるか、
生き残ったことに感謝するかという選択がありました。
私は2つ目の選択をしました」パオラさんは全てのブラジルファッションショーで引っ張りだこだ。ビキニを着た彼女の写真は、他のモデルのそれよりまったく見劣りがしない。
ずっと不幸でいるか、生き残ったことに感謝するか
感心してしまいました。
こんな「選択」ができるんですね。
普通だったら悔やんでも悔やみきれない出来事です。酔っ払った運転手を恨んで、一生後悔するのではないでしょうか? でも、パオラさんは生き残ったことに感謝するという選択をしたのです。
もともと、スタイルもよくモデルだったからできたのでは?という声も聞こえてきそうです。そういう見方もできるかもしれません。ですが、片足を失うということはモデル人生にとっては致命的です。
わたしたちは、打ちのめされるような経験をしたり、心が粉々に砕け散るような体験をしてしまうと、誰かのせいにしたり、自分を責めたりしがちです。恨みつらみを心の中に抱いてしまいます。そして一生それを引きずって生きていくしかなくなります。つまり「ずっと不幸でいる」ことを選択したことになります。
しかし、パオラさんのように「生き残ったことに感謝する」という別の選択をすることもできます。この別の選択をしたことで「ファッションショーで引っ張りだこ」の幸運を手に入れることができたのです。
選択しだいで、その後の人生が天国にも地獄にもなってしまう。選択の力ってすごく大きいと思いませんか? 人生そのものが一変してしまうのですから。
後悔をする代わりにその状況を楽観主義的に見ることもできます
火傷をしたり、切り傷やケガをすれば痛みがするので、もう二度とこんなことはしないぞと経験から自然に学ぶことができます。
心が痛むことについてはどうでしょうか? 経験から学ぶことができているでしょうか? 懲りずに同じ失敗を繰り返していることって多くないですか?
そして嘆くのです。あいつが悪い、あの人のせいだ、あんなことさえなければ、もしかしたら、自分に非があって、こんなことになっているのかもしれない。延々と他の誰かを責めるか自分を責めるか、この二つの間を行ったり来たり。
心の中は見ることはできませんが、火傷やケガなどと同じように、痛みを感じたり辛いということは、どこか間違っているというサインです。
心が痛む時は起きたことに対して、そのとらえ方、感じ方、思い方、考え方の何かが間違っているのかもしれない、そう教えてくれているととらえてはどうでしょうか?
先ほどのパオラさんの例でいえば、もし、運転手を恨んでいたとしたら、殺したくなるほどの恨みを抱くでしょう。心は張り裂けんばかりの辛い思いで死んでしまいたいと思うかもしれません。痛いし辛いです。同情は得ることができるかもしれませんが、心は晴れません。
恨みつらみや責めることは相手への攻撃的な行為ですが、同時に自分自身がとても辛くなります。痛みで傷つきます。ここで恨みつらみや責めること自体が「間違っている」サインだと気付ければ、別の感じ方、受け取り方をしてみるという選択ができます。パオラさんは「うつに陥り、後悔を始める代わりにその状況を楽観主義的に」見ようという選択ができたことがその後の人生をポジティブで明るい方向に変える事ができました。
ずっと不幸でいることを選択するのか?
それとも別の選択ができるのか?
言うまでもなく大きな違いです。後悔をする代わりにその状況を楽観主義的に見ることができれば人生は変えられます。写真を見るととても楽しそうです。
あなたはどんな選択ができるでしょうか?
最後までお読みいただきありがとうございました。
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